アートは僕らをどこかに連れて行ってくれる
芸術家、京都造形芸術大学教授 松井 利夫さんとの対話
「PLAY ON」を通して前景化したい創造性をどのような言葉で表現すべきか、と模索するなかで松井利夫さんという陶芸家の活動を知った。端材や解体材を燃料に、使われなくなった陶器を回収し焼き直す。「art&Archaeology(考古学)」という言葉のもとで、弥生時代の水田遺跡の底土を焼き上げる。さらには、職人さんのつくった素焼きの蛸壺を農道の真ん中に無人販売所を設置して売っているという。さらに松井さんは、京都造形芸術大学で教鞭を取り「教育はアートです」と語り、自らのこれからの展望を「ネオ民藝」と名付けている。
「つくる」ことの根源的な意味へのアクセスを感じる松井さんの活動と発言を知れば知るほど、本誌で紹介する方々の共通項である「根源へと近づくほど獲得できる自由な創造性」について話してみたいと思った。
そんな想いを胸に彼のアトリエへと向かうと、隣の葡萄畑のご夫妻と談笑しながら僕らを迎えてくれた。
器を新たにつくりだすのではなく、使われなくなった、あるいは使われること のなかった器を窯で焼き直してアート作品とする「サイネンショー」。
熊倉
本当にこう言ったら失礼かもしれないですけど松井さんの発言を読んでいると「共感すること」がとても多い。時々自分が喋っているんじゃないかと思うようなフレーズがある。だから、是非今回お話してみたかったんです。まずは、今のような活動、芸術観の背景に流れている想いを伺ってみたい。
松井
アーティストや芸術家って、まぁ特別じゃないですか。みんな多分、思春期の時に「自分は特別でありたい」と思うんですよ、きっと。確かに特別なことがあったりするわけです。例えば、美術の大学に入った時というのは特別なことなんですよ。でも食べていくとなった時に、実はマクドナルドでバイトをしていたりとか、他の人と一緒に交わる場所に出る。アーティストならアートで稼ぐ、デザイナーならデザインで稼ぐと言いながら、それだけでは食べれないから副業的にいろいろなことをやりはじめる。そうなった時に「矛盾」を感じるわけです。そこでゴリゴリに「俺はアーティストなんだから!」ということで、みんなと同じ共通の部分を否定するんです。「それでも、自分は特別だ」ということを維持したい、と。これは病気だと思うんです。「他人とは何か変わっていたい」という気持ちは分かるんですよ、唯一性みたいなもの。でも、それは僕らがどこかで刷り込まれたものなんじゃないかなと思うんです。もっと言うと「同じでありたい」ということの方が実は強いような気がするし。
でも、現実と自分の思春期に思い描いた自分像とが一致しないから、人は「アーティスト」ということで生き続けたい。それをより大きな声で伝えたいから、様々なメディアを自分の下に手繰り寄せて、いかに自分が「すごい」じゃなくてもいいから「変わっている」とか、「特別な存在であるか」ということを発信し続けているんですね。でも案外、同じコンビニで同じ弁当を買っていたりとか。生活を見ていくと、とてもダサかったりする。でも、アトリエの隣にあるぶどう畑の方とかは、生活はすごく綺麗だろうなと思うんです。無駄がないというか。野菜や果物を育てるというのは無駄があったらいけないし、人生みたいに自分で作為的に動くことが出来ないわけですよね。相手に任せないといけないし、それを読み取らないといけない。でも手は下さないと育たないし、何かをもらうためには守らないといけない。そういうことを見ていると、とても工芸的なんです。僕は陶芸をやってきたからそう思います。粘土って、どの土も同じじゃないんです。コシが違うし、砂がどれだけ入ってるかとか、粘りがどれだけあるかとか、熟成度がどれぐらいかとかによって、ロクロを回して同じ形をつくろうとしても、仕上がりが違ってくるんです。作為的にできないと納得して、向こうから引き出してこないと形は作れないんです。そう考えるとお百姓と僕らは一緒だし、だから夏目漱石や柳宗悦も作品のことを「作物」と言ってるのは待ち受けるものとして「作物」という言葉を選んでいたのだと思います。英語に訳すと「product」。ようするに、作品も「作物:product」と考えていくとものすごくしっくりくるんです。
桜井
鷲田さんの本のなかで「教育はアートです」というお話をされているじゃないですか。どういう思いでその話をされたのかを聞いてみたいです。
松井
歳をとると「この先どうなるんだろう」と思う。腰が痛くなったりとか、前にできていたことができなくなったりとか。前にできなかったことができるようになっているということを忘れがちなんです。特に、大学には学生が毎年18歳ぐらいで入ってくるから、それが基準となって自分を見ていくと、どんどん自分が歳を取っていくように思える。でも、ゼミをやって卒業制作をやっていると、いつも悩みは同じなんですよ。「この作品はもっとこうしたら面白くなるのに」とか、あるいは彼らの僕の作品に対するコメントとか、そこに永遠に変わらない関係があるんです。これは面白いなと思って。教育って、要するに「育ち合い」だと。ゼミは「畑」みたいだと思うんです。僕らが種を撒きました、それで彼らは夏休みと冬休みの度に変わってくるんです。その度に別れとか色々あるんです。その節目、節目にドラマがあって、そのリズムで僕らはずっと生きているというカレンダーがある。僕らのリアルな自然というのは、この教育現場です。そこでのやり取りのなかで自分たちが育っていく。教えてなかったら、僕はこういうことにはなってないと思う。絶対に気づかなかったことです。本当に「教わり合い」です。
桜井
学生に対して、何を持って卒業してもらおうと思っていますか?
松井
今の学校は、リアルな現実を見ようとしない大人たちが勝手に教育目標立てている、ということに対して、「そんなことはしなくても、アートは出来る」と身をもって学生に示してあげること。
そして、やっぱり「食べる」ということが基本だから、食べるということは、お金と交換することではなくて、本当に現実に食べるということなんだ、と。畑のものを食べたりとか海のものを食べたりとか。でもその意味で食べようとしても、今の世の中いろいろな規制がかかっているから、その裏をかかないといけない。規制を破ることは面倒臭いし、格好良くないから「裏をかく」ということの方を勧める。つまり、大人の裏をどうやってかくか、ということ。
昔ナポリですごいものをみたんですけど、赤信号で待っていた時に男が突然信号に向かって石を投げはじめて信号を割ったんですよ。それで「渡ろう!」と言って。今の社会では、信号が赤だったら、車が来なくても、みんなきちんと待ってるじゃないですか。そういう人たちに言いたい、「信号をを割らなくても渡ればいいじゃない。車来てないんだから」と。アートって、善悪の彼岸にあると思うんです。真善美の「美」の部分。だから、もっともっと「美」に対して貪欲であって欲しい。だから善悪や金や名誉ではなく「大人の裏をかけばかくほど、美のインパクトは強いぞ」という「石」を投げかけて学生がどんどん社会に波風を立ててくれていることこそが「美しい日本の風景」だと思います。
熊倉
ようするに、松井さんはものづくりだけじゃなくて、そのものづくりを媒介とした新しいオルタナティブな経済なりシステムなりを、しかも学生さんたちとつくってらっしゃるわけですね?
松井
うん。いいのか悪いのか頼まれたいろんなプロジェクトを学生や卒業生の人力と能力の無償の提供しあうことで運営しています。とはいえ最近は学生も大変だから「奨学金」と言ってアルバイト代を払ってますが。ただ働きって気持ちが豊かになったりしません?その時間があったら本当は作品を作ったりとか、もっと売ったり出来るのに、とか思うけど。でもよく考えたら売れてないからね、作るばっかりで(笑)。アーティストそのものが、発注もされてないのに作品を作り続けている。つまり「過剰生産」なんです。でもそれは僕はすごく良いことだと思うんです、ほんとに。それこそが自分の特殊性が保証される場所であって。世間と切れてるが故に、自分の中だけで完結している世界があるんです。それは大事にしないといけないと思う。だから、世間から切られている自分と、世間と繋がってずぶずぶになっている自分と、その両面をやっぱり学生には伝えたいと思っています。だから僕は「なんで僕らは生きてるのだろう?」みたいな青臭い話をゆっくりしたいんです。そういう世間であんまり出来ない話を本当したい。そういう話を授業の中でもします。
特に、3·11のときは酷かったですね。もうとにかく、原発の話ばかりしてました。東日本大震災の一番の問題は、津波ではなくて、「人災」。放射能や、権力といったそういう、見えないものを見える形にするのがアートだと思うし、そして教育だと思うんです。だから僕らがあの時に一番伝えなきゃいけなかったのは、「3·11の中で、見えなかったもの」だと思うんです。ただそれを言葉だけじゃなくてモノで見せないといけないから、僕らは「サイネンショー」をやりはじめた。
そして、「サイネンショー」のはじまりは物々交換。お金じゃないものとの交換。「魂の資本主義」と言っているんですが、そこで生まれてくる価値、そしてそれの測り方と、価値をどう蓄積していくのか。蓄積というのは、コミュニティの成熟度みたいなものだと思うんです。やっぱり何か形が欲しいんですよね、僕らは。それがこういう場所になったりするんです。こういう場所にいろいろな人たちが手を加えることによって「自分化」していくということです。「この床は私がやった!」みたいなのがやっぱりあるんですよ。僕も、「この床はこの人たちがやったんだな」というのがすごく嬉しい。そういうものを残していきたい。でもどこにもサインはしていないんです。やっぱりそこがやっぱり潔くて、良いなと思うんです。
PHOTO BY 白石和弘(草月美術館蔵)
古民家の解体材を燃料として、ラーメン鉢の内側に漆を塗り焼き直した作品。
熊倉
僕が慶應大学の近くでやっていた「三田の家」というのは、まさにそういう場でした。通常、社会的な場所は用途が決まっていて、そこに入ると役割も自動的に与えられて、それに従って振る舞えばいいんです。だけど、「三田の家」は、何の用途も決まっていない空っぽな空間なので、場所の用途自体も発明しないといけないし、自分の役割も発明しないといけない。しかも瞬間的に、即興的に発明し続けないといけないところでした。誰が入ってきても良い場所だったので、場合によっては全然知らない人たちとコミュニケーションしないといけないという場所だったんです。それこそ「自動生成的」な空間、つまり即興的なコラボレーションが絶えず勝手に生まれていくような空間になっていて、7年間そうやって「自動生成」されていたんです。
桜井
先ほど仰った「サインをしないことが潔い」とか、今僕らが前景化したい創造性の共通点には、「寛容性」という言葉で表せるようなものがあります。そして、それが「作家性を手放す」態度に表れているなと思っています。そして、そういう方向で発見できる創造は、どんどん所謂「アート」が小さくなって、例えば、教育、例えば食堂というように、これまでは「アート」ではなかった違うジャンルに近接していくと思っています。それでも、最後まで「アート」ととして残るものは、なんだと思いますか?つまり、アートのミニマムは何か?ということです。
松井
アートを「モノ」で考えていくとジャンルに分かれていってしまうから、「手法」として考えた時、ようするにアートというのはすべての「手法」だと。だから政治もアートだし、教育もアートだと。アートはもともとアルスであり、技術。「生活をとにかくより良くしていくための技術がアート」だというふうに思うんです。でも今仰ったように、その技術独特の何かが欲しいじゃないですか。僕はそれが「別のところに連れてってくれる」「今じゃないどこかに連れて行ってくれる」という、その感覚がアートだと思うんです。だからお百姓さんでもアーティストの人はいるし、パン屋でもアーティストの人はいる。「その葡萄がどこかに連れてってくれる」とか、「このパンがどこかに連れて行ってくれる」、そういう人がアーティストだと思うんです。ということは、アートというのは二重になっている。一般的な次元では、みんなアーティストなんですよ、生活を良くするための技術を持っている人たちは、みんなどんなジャンルでもアーティスト。でも、そのなかでも、さらに狭い意味でのアートというのは「その人のパンは、どこかに連れて行ってくれる」という、エクスタシーがないとダメなんです。「Tira mi su( ティラミス)」天上に連れて行ってくれる、さらには「転生」させてくれる。そうでないとアーティストはただの製造業です。
桜井
みんながアーティストである、でもそのなでアートを生める人というのは限られている。
桜井
芸術を試みることはできる、でも芸術のクオリティをもてるかどうかというところは、別の問題だと思っています。では、今話した意味でのアートを生み出せるように育てる教育は可能でしょうか? その「どこかに連れて行ってくれる」そのクオリティを生み出す教育は、個人が持つセンスに頼る以外で可能性を高めることはできるのかな、と。
松井
それは「環境」。環境の選び方、選ばせ方です。才能は環境で生まれるだけであって、才能という核みたいなものがあるわけではないと思うんです。ピカソがもし、うちの父ちゃんと母ちゃんのところから生まれていたら、あんなことにはなっていない。時代もあるのかもしれないけど、時代も含めて環境です。だから「この子は、ここにいるより、例えば木に登らせた方がアートに対して目覚めるだろうな。「ちょっと登って来て!」とかね。それで合わなかったら、「言葉の通じない国に行ってこい」と。4年間って時間がありますから、その中でやっていけばいいんです。
あと一つ。昔、ある大学の心理学を専攻する生徒を教えていたことがあるんです。そこで京都造形芸術大学でやっていることと全く同じ内容でやっていたんです。どちらに面白いものが出てくるか、と思って。すると、ほぼ同じ割合で面白いものが出てくるんです。でも、それは僕と「彼ら」の関係。「彼ら」というのは、「授業のなかでの私」です。授業の中では、面白いものが出てくるんです。でも、それは授業だから。それは「授業のなかの私」が発揮した限定的な才能なんです。僕らはそれを「人生のなかでの私」というところまで飛ばしてあげないといけない。造形大学の学生がどうしてアーティストになっていくのかというと、彼らは「授業だから」とは思ってないからです。授業と自分の将来をどこかで橋渡しできている。つまり「意識の持ち方と環境」なんです。
だから、「環境とどう繋いであげるか」ということと、本人が今生きている限定的な自分の居場所と人生全体の居場所の間に、橋を渡さないといけないと思っています。なぜかというと、「今この場の楽しみ」というものが、ようするにこれからの人生すべてへの「人生の入口」なわけです。「この楽しみを永遠に続けることが、仕事だよ」と伝えないといけないんです。銀行員になってもいいから、この楽しみを銀行でお札の勘定する時にでも感じる、とかね。そうすると、ほんとに面白い銀行もできるだろうし、「そこに行ってみたい」と思う銀行もできるはずなんです。
桜井
言いたいことをすごく言語化してくださったと思います。
桜井
はい。なぜ「PLAYON」と名付けたかということ、まさにそのようなことです。「プレイし続ける」ということなんです。すると、ある言葉で示されるようなことの根源的なところ、ミニマムな条件は何か? というとろまで自由度を高める人ばかりなんですね。農業のミニマムとか、工芸のミニマムとか。
僕が生まれる少し前、1960年代後半に、地球に生きる多くの人が青い地球を視覚情報として見ることができた。だから、今これまでの様々な人の営みを全地球観点からやり直さないといけない、ということに気づいている。まさに「人類2.0」くらいの「新しい地球人」として、芸術とは何だろうかとか、哲学は何だろうか、経済はなんだろうか、という事態になっていると思っています。「PLAY ON」で前景化したいのはそういう営みです。それは「藝」という文字の元となった象形文字、大地と植物とそれに手を添える人の姿のように、あらゆる領域の根源から育て直す営みだと思っています。その営みの入口になりうること、それが「PLAY」だと。その数が増えればこの世界はもっと柔らかくなる。
松井
隣の葡萄畑はものすごく綺麗、ほとんど趣味ではじまったと聞きます。なぜ隣の葡萄畑の話をするかというと、そこの葡萄は美味しいだけじゃなくて、その風景がとても綺麗なんですよ。なぜそのクオリティでできるのか、一つの理由はね、あの人がプロの栽培農家じゃないからなんです。「趣味」というか、「好き」だから。兼業作家だからできる。だから余分なことに注力できるわけです。毎年、新種を入れながら28年も続けている。それが商売だったら新種を入れる必要は無いんです。同一品種を続け広げる方が効率的だから。でも、それをやるのは「面白い」からなんですよ。それが、年間8000房も採れる。
桜井
松井さんの芸術を、「新しい芸術の概念」として言葉にするとしたら?
松井
それを今探しているんです。例えば「サイネンショー」や「ネオ民藝」みたいなものが出てくるだけど、今言っているようなアートに変わるような言葉というのはまだ僕には見つかっていないです。
松井
そこは敢えて。民藝ではないオリジナリティを「ネオ民藝」のなかに見い出せないかと思ったんです。民藝そのものは硬直化しちゃったかなと思っていて。民藝みたいだけど、民藝とは違うもの。でも、精神的にはほとんど一緒です。集団性であったりとか、何か超越的なものが入っていたりとか、無名性であったりとか。
そういうことはこれからアートをやっていく中で、すごい大事だなと思っています。民藝という言葉も近代に生まれたわけだし、それまでは人々が自覚してこなかった自分たちの生活を、うまく掬い取ってくれた言葉だったと思うんです。でも、民藝の「民」というのは「民:たみ」という「citizen」なのか「people」なのか、何なのか、というのは時代によって変わるじゃないですか。所謂近代化が必要だった時期があったとして、それに対する反省として民藝があるとしたら、その民藝芸をもう一回反省することは意味があると思うんです。反省して、どこに戻すのかということを考えています。
熊倉
僕らは今回の企画に当たって、今話していたような、いわば「ART以降」の創造性をどう呼んだらいいかという話を、何回もミーティングを重ねてしているんです。そして、暫定的に日本国内向けには「藝術2.0」、そして海外向けには「ART2.0」と訳すのではなく、あえて(「2.0」をつけずに)「GEIJUTSU」とローマ字のままにした方がいいと考えはじめています。
松井
それは面白いかもしれないね。面白いというか、それが普通ですよ。ぼくは「芸術未然」ということを考えて今熊倉さんと同じようなことを考えていました。
桜井
一方で、今話しているぐらい芸術をすごくミニマムなものにしていく、或いは、芸術を開きすぎると、「藝術2.0」という言葉のもとに、工芸も建築も音楽も、解体していくことになるような気がしています。
松井
解体していった方が良いと思うな。あんまり意味がないから。今の工芸も、アートも、思想的には近代の思想で動いているから、「私」なんです。「私の表現」。それを工芸的なものに委ねているか、アイデアに委ねているのか、の違いなので一緒なんです。そこには全く、未来はないと思う。
2020年に亀岡で芸術祭があるんですよ。農業をベースにした芸術祭にしようと思っています。亀岡は京都市に京野菜を供給している。そしてアーティストがいっぱい住んでいるんです。亀岡は今、スタジアムを建てる計画をしていたり、若者のスポーツで街を盛り上げようとしている。それよりは、年寄りでも歩いてできて、あるいは自転車に乗ってできるスポーツの街が良い。戦うスポーツではなくて、歩いたり、それこそ哲学の道みみたいに思索したりするような道を作りたい。その道と道のあいだに、田んぼや畑があるようなものを作りたいんです。そこでは、今Iターンで農業をやっている連中に、それぞれの土地に小屋を作ってもらおうと。それでその小屋のなかで、そこで作ったものを提供するとか、自分の自慢のコーヒーを入れたり、何でもいいからやってもらう。ようするにそこで作られた一次産品と二次産品、サービスを含めたような小さなパビリオンがそこそこに立っていて、そのパビリオン巡り。それぞれの百姓が作ったアート構造物とそこの食べ物の味を味わえる道を作っていくというのをやろうと思っているんです。来年一度試してみようと思っています。とりあえずは企画に乗ってきている百姓のなかだけで、一回余ってる自転車とかでやってみようと。自転車のデザイン、小屋のデザイン、それから料理やサービスのデザインが全部あった上での野菜が出てくるわけです。そしたら野菜の売り方も変わると思うんですよね。ようするに、アーティストになるんじゃなくて、参加する中でアーティストになっていく。そういう時代になれば良いなと思います。いや、「アーティストになる」というよりは、「それぞれが、それぞれになる」というのが一番だと思うんです。百姓はお百姓さんになる。でも、それはアートな百姓になるっていうのがいい。
桜井
今、工芸もアートも解体してしまえばいいと、仰った時にすごく楽になりました。「そんな区分けは無くてもいい」と思えた。近代化のなかで、分かれたことなんて気にしないで、分かれる前のことをやればいい。そう思うと、すごく楽になる。松井さんは一貫してそのアプローチですよね?
桜井
私はずっとサラリーマンをしていたんですけど、造形大の大学院に通って松井先生と知り合いました。造形大は久美浜に窯がありまして、そこで先生が3·11の後に「原発に頼らない芸術活動はどういうものか」と「サイネンショー」が始まったんです。その「サイネンショー」というのは、窯場にプロの陶芸家や、私のような素人、あとは主婦が来たりします。そこでは不要になった陶器をもう一度焼くということをします。「捨てられそうになった陶器をもう一度復活させよう」と。古民家で不要になった木を燃料に使って、そこで採れる牡蠣や蟹の殻を一度砕いて釉薬を作ったり。だから全て捨てられるもので作ろうという話です。
そこでの窯場でのコミュニケーションがすごく面白かったんです。1人の芸術家とか1つの商品というよりも、「芸術環境」が面白かった。一人のどうこうというよりは、みんなで分け与える、そういうことを先生が主催でしていたわけなんです。
そして、その窯で焼く炎がものすごく美しいわけですよね。赤色から橙色、ピンク、1,300度を越えたら白色になっていくんです。その炎の美しさ。そして器が真っ赤に焼ける、その美しさ。そして、病みつきになったんです。
そういう「芸術が出来るまでの環境」が、ものすごく新しいものを生み出しているように思います。
そこは何か人間性を再生してくれる。「サイネンショー」も「再生」ということなんです。そこでもう一度、人間を再生させる環境が芸術環境のなかにあるんじゃないかなと。本当に食べるもの作って食べていくというのが人間の本来の姿ですよね。「人間性の復活」、「本来あるべき姿に戻してくれること」が芸術環境のなかにあるんじゃないかなと思います。だから一人の芸術家が何かものを作るというよりは、その環境が新しいものを作り出すというか、それがずっと循環していく。
松井
そういうこと言ってくれるから、「そういうことだったのか」とわかるわけです(笑)。それと思い出した。僕らは「サイネンショー」をしている、桜井さんは森をつくったりしてる。それはお金になると思うんです。僕は、それをお金にしようとは思っているんです。お金にしないと、また面白くないというか。石ころを売っていくらになる、そんな世界をつくりたいと。そうなると、貨幣経済を混乱させることができる。貨幣経済の中でいろいろ「遊んでやらないといけない」と思っていますそれを果敢にアーティストがやっていくといいな、と思います。
もう一つは、自分でできる芸術と、自分一人ではできない芸術がある、ということに気づいたのは大きかったと思います。だから小山さんとやっていた「ツーボトル」という無人販売所の取り組みも、「サイネンショー」も誰の作品かわからない。もともとは誰かが使っていたものだろうし。だからそういう意味では、あれは一人でやれる仕事ではない。必ずそこに誰かが入っている。「近代は、誰かを排除してきた歴史があった」と思います。だから近代によって生まれた芸術も工芸も、誰かを排除して成り立ってきたと思うんです。鮭の川登りと一緒で、最後に数%しか登れない。
熊倉
作家以外は、消費者として、鑑賞者としてしか入れない。
松井
そう、鑑賞者としてしか入れなかった。でも今や、創造者として入れる時代に来ている。それはやっぱり新しいOSだね。