OSとしてのアートが発酵文化をさらに「スペシャル」にする
発酵デザイナー 小倉 ヒラクさんとの対話
私は、去年から、このPLAY ONのサイト、そしてWeb春秋というサイトに連載しながら、「藝術2.0」を巡って、宛ても定かでない旅を続けているが、その中で、是非とも会って、自らインタビューしたいと思っていた一人が、発酵デザイナー小倉ヒラクさんだ。私が、ちょうど「旅」をし始めた頃、たまたま、いや、おそらくは出会うべくして出会った本が、彼の『発酵文化人類学』であった。そこには、未だ朧な「藝術2.0」の像に閃光を放つような文言が散りばめられていた。資本主義社会の「サムシング・ニュー主義」から発酵食のような「サムシング・スペシャル」を大切にする社会へ。発酵という生物学的現象を、生命エネルギーが循環する「ギフトエコノミー」と捉える視点など。
今回、彼が暮らす山梨まで、Web春秋の担当編集者で、PLAY ONのContributing Editorでもある楊木希さんとともに赴き、『発酵文化人類学』を読了後、自分の中で「発酵」していたいくつかの問いを投げかけてみた。
熊倉
藝術2.0を言語化し始めている人はほとんどいないけれど、それをしている稀な人の一人ではないかと思い、小倉さんにお会いしたかった。
小倉
昔フランスに住んでいたことがあるんですけど、この間フランスから連絡があって、『発酵文化人類学』をフランス語に翻訳したいというんです。来年、日仏通商150周年で、今年中に翻訳して、来年出版ツアーしましょうという話があったんですね。それで、何で僕の本を翻訳したいのかって聞いたら、フランス人が読んだら、発酵についての日本的な社会哲学に見えるという話で。話のキーとして、マルセル・モースやレヴィ=ストロースが出てくるんだけれども、本人たちが意図していない文脈でこれほど見事に引用されているのは、ほかに例を見たことがないと。例えば、ATP交換の話をしているのに、マルセル・モースの「贈与」の概念を使っている。あるいは、お味噌の話をしているのに、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」の概念を使っている。本当に意味がわからない使い方なんだろうけれど、彼らが生きていたらすごく喜んだじゃないか、って言うんです。
フランスは、第二次世界大戦中から1970年代にかけて、現代思想や社会哲学のイノベーターとして活躍してきたわけだけど、その後「文献学」ぽくなってきたのではないかと。もともと、複雑化していく現実に対してどのように向かっていくかということで、思想や社会哲学があったわけだけど、ある時から解釈学っぽくなってきて、自家中毒的になったのでは、という反省がフランスにはあるそうなんですね。僕の本を読むと、日常の暮らしから一歩も出ていないのに、きちんと社会哲学になっていて、抽象度がやたらと低い。ひたすらお味噌のこととか、菌のこととか話しているのに、その背景に社会的なものが見えてくる、ということが、新鮮で日本っぽい。だから、フランスの人にぜひ読んでほしい、ということらしいんです。
僕が最初その話を聞いたとき、まったく予期していなかった読まれ方だったので「えっ、冗談でしょ!」と思ってしまいました。
現代アートとか現代思想とか、その「系譜」があって、その量が増えていくと、それを一通りさらっていますよということに労力の8、9割が割かれてしまって、自分がこうしたいという初期衝動や、自分がこういうテーマをもっているという表現の幅が非常に小さくなってしまう、という構造的欠陥があると思っています。
僕が仲いい人達には、醸造家が多くって、彼らには、アカデミズムのように、私はこれだけ知っていますよ、その上でこうです、といったことはいらなくて、現場で向かい合う「現場知」のいろんなパースペクティブで語るので、そこにはある種の「風通し」の良さがあります。
熊倉
僕も、24歳くらいから7年間フランスで、象徴主義に分類されるステファヌ・マラルメという詩人の研究をして、現地の学問的な「お作法」も勉強しました。で、31歳で帰国して、大学に帰ってすごくびっくりしたのが、ヨーロッパでは普通な学問の基本がほとんどなされていないことでした。例えば、論文の書き方とか、誰も教えてくれなかったんです。つまり、学問のABCすら教えてくれなかった。看板には「大学」ってかいてあるけど、中身は「なんちゃって大学」であると気づきました。
でも、それは「大学」だけではなかったんです。1990年代、バブル時代に計画された美術館が日本中に建てられたけれど、学芸員が圧倒的に不足していたので(いまでは信じられないけど)修士を卒業する前から学芸員の就職が決まっていました。で、彼らはほとんど何も知らない状態で、現場に入っていく。それで、大学にアート・センターがあって、僕はその運営・企画委員をやっていたのだけれど、そこで、現代美術を論じるにあたっての基本的な文献を読むような研究会を主催していたんです。
僕も、大学で、最近美術史などの歴史を教えていて感じることは、学生たちが単に美術史という「体系」を知らないだけではなくて、時間に奥行きがあるという感覚自体をもっていない、っていうことです。そういう人たちに、「歴史」を教えようと思っても教えられない。
フランスの美大だったら、21世紀の今何かを作るにあたって、前にデュシャンやボイスがこういう作品を作ったということを知った上で、先人たちがほとんどやり尽くしたことを勉強した上で、じゃあどうしようという発想になります。ところが、日本の美大では、そうした知識が非常に断片的で、だから稀に「突飛な」作品ができるかもしれないけれど、逆にほとんどの場合は、すでに「やられている」作品しか作れない。だから、ヨーロッパと日本では、学問や創作をするにあたっての「前提」が全然違うんです。
例えば、藝術2.0について原稿を書く場合、読者は一応「芸術」に関心がある人だと思うので、ヨーロッパなら「フォーマリズム」について註をつけたりしないわけですよ。
小倉
僕がツイッターでつぶやいていたことと同じですね。『ゲンロン0』〔東浩紀著〕を読んだとき、「系譜」の説明が7割くらいで、リテラシーの高い読者に限られていれば「周知の通り」といってそれを削れるのに、哲学のリテラシーを持つハードルが上がりすぎたために、多くの人に届けるためにはページ数を割いてそれをやらなくてはいけないという苦労が生まれている。
だから、アートも系譜がみえなくなったというのは、アートにまつわる情報や歴史が増えすぎたからかもしれないですね。
楊木
逆に、多くの人が読んでくれるという前提があった場合、どこまで説明するのかという問題もあると思います。
小倉
僕の専門は、生物学なんですけど、生物学では「系譜」の話は絶対にやらなくてならない。そうしないと成り立たないから。顕微鏡やシャーレの使い方から始めて「先行研究」を一通り読む。レポート・論文のリテラシーを勉強する。そうしたことを全てやった上で、なお解明されていない微生物のふるまいについて自分なりの研究をする。だから、エベレストを登りきったところで登頂のうえに石を一個でも載せられたら…!という感じ。だから、論文を書くときは、「自分はこういうことを見つけました。その前提になることは、補足にあるこれこれの論文を読んでください。」という前提はショートカットして持論を進める。
でも、今の人文系の研究者や表現者は本人もたぶんやりたくないのに、その「前提」を延々と書かざるを得ない、書かないと誰もわからないじゃないかという危機感がある。
僕は、生物学を研究する者であると同時にデザイナーです。デザイナーって、論文を書くのが仕事でなくて、プロダクトやサービスを作ることが仕事。プロダクトやサービスを作ることって、「前提」条件を説明しなくても、なにがしかの効果を人に与えられる方法論なんですけど、これは直接的にモノをつくれるストロングポイントですよね。
今のアカデミズム、特に人文系が難しいのは、「直接性」が言語しかないことだと思う。「背景」を説明する言語で埋め尽くされて、「作品性」がどんどん圧縮されていくという構造になっています。
楊木
その点で、『発酵文化人類学』は、よくできていますよね。
小倉
実はあれは「反則技」を使っているんです。アカデミズムでふだんやらない技をいろいろ使っているんです。
楊木
「モースさん」とか「新橋のサラリーマンのおじさん」という身近な例を使って、発酵についての専門的な話をするというやり方が新しいと思いました。
小倉
生物学は、様々な学問の中でもとりわけ知識が網羅的にならざるを得ないんですね。なぜなら、地球上に生き物がたくさんいるから。物理学とか数学では、真理が「収斂」に向かっていく。E=mc2で色んなことが説明できる、というように。ところが生物学は反対に「例外」をたくさん見つけていきます。例えば、DNAは2本鎖だと思っていたら、1本鎖のものがあった、真理が解体された!ということが真理、みたいな構造。だから、知識はどんどん網羅的になり、拡散していきます。
小倉
ゲノム解析ができる時代になってから、「博物学」的要素以外にデータサイエンス的要素も入ってきて、つまりある意味でますます総合的な博物学的になっていて、そうすると、ある程度研究者向けの話でも、分子生物学をやっている人には、進化生物学がわからない、進化生物学をやっている人には、発酵学はわからないというふうになっています。
だから、哲学の分野でやっているようなことを、生物学では様々な専門的領域をブリッジするためにやらなくてはいけないという、つらくもあり楽しいところがありますね。
帰納法と演繹法の枠に収まらない「アブダクション」(それが卓越してるのは著名な生物学者のリチャード・ドーキンスなんですけど)、何かの「例え話」にしてしまう、文脈ごと何か違うものに置き換えてしまう。それは、ある意味で科学的な因果関係を破壊してしまうことでもあるんです。だけど、ドーキンスみたいな人は、本当はサイエンスとしては正統ではないけれど、コミュニケーションとして伝えるには必要だ!ということでやってしまう。そうしないと、生物学のエッセンスって、外の人には伝わらないんですね。
私見ですが生物学には、ファクトの発見とパラダイムの確立というレイヤーがあって。例えば誰々博士がスゴい再生細胞を見つけた!というのはファクトの発見だと思うんですが、細胞から自分たちの体を見つめ直したり、細胞をたどっていくことによって自分たちがどのように進化していくかの意味を体系化した時に、新しいパラダイムが生まれる。ファクトの発見は、因果関係がベースになりますが、パラダイムの定立にはある種のアブダクションが必要になるんですね。
僕が今回本で目指したことはファクトの発見ではなくて、パラダイムの発見なんですね。
熊倉
僕はまさにそれに惹かれたんです。僕も、3年前に『瞑想とギフトエコノミー』という本を出したんだけど、それは「瞑想」を「ギフトエコノミー」的に捉えて、逆に「ギフトエコノミー」を「瞑想」的に捉えるということをしたんです。それが「アブダクション」かもしれない。
ヒラクさんの本でいうと、もし著者がフランス人だったら、「ギフトエコノミー」を、モースなどの学問的背景がありすぎるから、発酵における微生物とのやりとりに見るということができないのではないでしょうか。
僕の本でいうと、瞑想という非常に精神的な行為を「ギフトエコノミー」に結びつけることができないんじゃないか。例えば、本で「セックス」について論じていますが、それを現代のようにステレオタイプ化されたものではなくて、パートナーとの交わりにおける、エネルギー=気のサーキュレーションとして「ギフトエコノミー」的に捉えたわけです。
それで、ヒラクさんの本を読んだら、分野こそ違うけれど、同じ思考の仕方をしているなあと思ったわけです。
小倉
世の中は因果関係だけではできていない。自然科学ではファクトとエビデンスという因果関係で物事は成り立っていることを僕も叩き込まれたんだけど、一方では因果関係で説明できることは非常に少ない。なんで今、僕が熊倉さんと会ってお茶しているかということは、因果関係では説明できないですね。
実は、僕たちの生活や生き方は、因果関係でないものが強く支配しているんだけど、それを因果関係で扱う方式がガリレオ以来の自然哲学の主流をなしている一方、そうじゃないじゃないかと考える僕や熊倉さんみたいな人たちがいます。
熊倉
『発酵文化人類学』の92ページあたりに、「サムシング・ニュー」から「サムシング・スペシャル」へという話があり、また96ページあたりに、古い伝統文化を新しいカルチャーとして「キラキラ」したものにデザインし直すという話がでてきますが、あるローカルな環境があって、そこに住む菌がいて、そこに何百年も暮らしてきた人たちが、発酵食品・文化をつくってきたときに、その「手前味噌」づくりにおいて、それを作る人の個性、特異な人間性はどのように作用すると考えますか?
小倉
その人の精神的なものに関しては、なんとも言えないですね。なぜなら、「精神」とは何かということがよくわかっていないから。考察対象の定義ができていない時に、その対象に別のものをどうアプライするかを考えるのはむずかしい。
熊倉
たとえ個人の精神だとしても、その精神は、先祖たちの「霊」の集合でできている…。
小倉
だとすると、その人個人の精神とは、純粋に独立したもの、微生物的にいうと「分離培養」できるものなのかどうかというと、かなり微妙。集合具合をセンシングする方法を僕たちは現時点ではもっていない。
具体的な話をすると、今、僕は「ぬか床」の研究をしています。ぬか床を因数分解して、モデル化してるんですね。面白いのは、「ぬか床」っぽさを決める菌のひとつとして、人間の常在菌のカンジダ系の酵母があるようです。そいつがぬか床の空気のない状態のところに定着してると、ぬか床のなんとも言えない香ばしい感じを作ってくれる。で、そいつがぬか床の中にいると美味しくなるんだけど、かき混ぜるのをサボって、正面にいる空気のあるそいつらが繁殖すると、セメダインぽい臭いになる。ぬか床って、ある種のコミュニケーション・モデルなんですね。定期的にいろんな野菜を突っ込まれて、そいつらが野生の乳酸菌をインプットする。一方でいろんな野菜が入れられるというインプットがあり、もう一方で手でかき混ぜられるというインプットがあって、つねに「ゆらぎ」があるんですよ。その「ゆらぎ」の中から「ぬか床」らしさが発生する。それが「複雑系」のモデルだということがわかってきたんだけど、発酵学の系譜のなかでぬか床のモデル化が確立できなかったのは、ある種のナラティブな語り方をしないとモデル化できないからなのかもしれない。
そのもうちょっと簡単な形態がお味噌。お味噌も作る人によって味が変わってくるけれど、その人自身やその人の住んでいる家の微生物環境、「マイクロバイオーム」が作用する。大手のお味噌屋さんだと外から菌を入れるのである程度決まった菌しかいないんですが、自家製の場合は、麹菌以外は菌を添加しないので、そこらにいる野良の乳酸菌や酵母菌で味が大きく左右される。だから、発酵させる場所によってマイクロバイオームがそれぞれ違う。
マイクロバイオームの多様性は住んでいるところからくるのはもちろんだけど、食生活とか、親、とくに母親からの遺伝も関係してきます。あとは、手の洗い方とか。それから、顔面でいうとストレスが多い人は、皮膚の表面の微生物層がストレスという神経系の働きでエコシステムが変わってくる。変な脂汗が出ると、それを餌にする悪玉菌が増えてニキビの原因になります。
人間という存在がそもそも、人間として持っているDNAと精神性、それと体内や環境内の生物との関係でつねにゆらいでいる存在なんですね。その存在が発酵食品というそもそもにゆらぎを抱えるものを作るので、仕込む人や場所によって質が変わるというのは当然なんですね。
熊倉
そのとき、手を突っ込む人の「センス」とかって、関係するんですか?
小倉
その「センス」も、食べる人とのインタラクションによって変わってくる。食べる人がどう評価するか。アートだって、作る人が自分でいくらセンスがあると思っても、見る人が「それって誰かのパクリじゃん」と思ったら、そのセンスは否定される。センスって、作る人と見る人の間に成り立つもの。発酵食品のセンスも、それと同じです。環境における色んなパラメーターがセンスの定義を左右していくわけです。
僕も日本中旅するけれど、たまに、酒屋さんとかで、特別なことを何もしていない、ありきたりな作り方で、作っている人たちも「凡庸」なんだけど、酒はめっちゃ個性的というところが存在する。「なに!! どうしたこれは!!」ってなるんだけど、どうしてかというと、蔵が汚いとそうなりやすい(笑)。だから、蔵が汚いと、僕は期待するわけです。これはすごいインタラクションが起こってるんじゃないかと。つまり環境的な変数が多いっていうこと。環境的な変数をさっぴくと、「自分はこういうものを作りたいからこうなりました」的な、人の美意識とアウトプットしか関係性がない。発酵って、もうちょっと複雑で、そこが面白いんですよ。
だから、わかりやすく「A=Bです」みたいには答えられない。AとBの間に、「シュレディンガーの猫」のようなゆらいでる微生物層という介在が入る。私がこうやりましたから、あなたがこう受け取ります、みたいなところに、謎のフィルターがかかってしまう。ある意味でいえばその不確定性のなかに「ハマり要素」があるわけです。
楊木
「食べる」っていうのは、それが自分の一部になるということがすごいですよね。絵画なら「見る」だけだけど、発酵食品のように自分で摂取してそれがエネルギーになるっていうのはまた違う気がします。
小倉
微生物学の最先端では面白いことがいっぱいわかってきています。腸の中や膣の中にいる微生物が人間の精神に影響を与える、セロトニンやビタミンの分泌に関わっているということがわかってきています。物を食べるというのは、自分に栄養を与えると同時に、体の中にいる微生物にも栄養を与えることになる。人間は、進化の道をショートカットするために、微生物を媒介として選んだんですね。遺伝子の継続的変化は、特殊なオペレーションを用いない限りものすごい長い時間が必要。手っ取り早く環境が変化するために進化したいと思ったら、賢い方法は微生物を体の中にいれちゃうことなんですね。それによって、新しい遺伝子機能を自分の中にインストールしたのと同じ状態になる。人間という体がOSだとすると、あるiOSとかWindows OSとかに新しい機能を付け加えたいと思ったら、Apple Storeからダウンロードするじゃないですか。それが微生物なんです。
それのわかりやすい例がコアラですね。コアラって、ユーカリの葉を食べるんですけど、ユーカリの葉って、哺乳類の消化能力では分解できないんですよ。毒になっちゃうんで。コアラって、全く非力じゃないですか。だから、食物の争奪戦に勝てない。そこで、誰も食べないものを食べることしか生き延びる道がない。じゃあどうする?となった時に微生物をダウンロードして特殊な分解能力をゲットする道を選ぶことなる。ユーカリの葉を分解できる菌をお腹の中に住まわせて、ユーカリの葉からエネルギーをもらうんですね。
アメリカの微生物研究チームが企画した、男子が何日間か着っぱなしにしたTシャツを何組か用意して、女子生徒にどのTシャツの匂いが好きか聞いて、マッチングするビックリ合コンがあります。このTシャツのこの匂いが好きっていう傾向を分析していくと、基本的なセオリーとしては自分と違ったDNAをもった人の匂いに惹かれるそうなんです。だけど、一部の女子は逆で、自分となるべく近いDNAの方を好む。その少数派の女子は免疫機能が崩れている傾向があることがわかってきた。体の中の微生物や免疫機能に多様性があると、自分の付き合う人にも多様性を求め、多様性が崩れていると、同質性を求める、というようにも解釈できそうな感じですね。
こういうことを前にして、「自分」という個体、そして自由意志は独立して存在するのか、というのは難しい問いですよね。さっき「人の精神が発酵食品に影響するんですかという問いはむずかしい」って言ったのは、そもそも「自分の精神」っていうときの「自分」がどこまで「自分」なのかということが、スピリチュアルな意味でなくて、フィジカルなレベルで、「どうなの?」っていう感じが生物学を研究する者としてあるからなんです。「自分」の定義はちゃんと片付いてますか?って話ですね。そこが片付いてないと話が進まない。
熊倉
近代のアートは、個人の表現とかいうけれど、実際はそうじゃなくて、今の微生物の話と近いと思います。自分の孤独な内面の世界を作品にしている風なんだけど、実際は、自分というものが他者の霊によって作られているということがわかってきて、霊たちが、微生物みたいに、とりあえず現れた形が「自分」でしかない、ということがわかってくる。そうした事態を、例えば僕が昔研究していたマラルメなんかは表現していました。
小倉
発酵って、コミュニケーション理論的なところがあります。フィジカルなサイエンスでもあるんですけど、さっきお話ししたぬか床の例をとると、なぜフィジカルでぬか床をモデル化できないかというと、ナラティブがないからなんですね。ナラティブは因果関係のもとで構築されたものではないのでいわゆる自然科学のリテラシーでは重視されないんですが、それはずっとアートがやってきたことなので、自分の中ではそんなに抵抗はなかった。
熊倉
僕にとっては、それが思考として非常にクリエィティヴに響きます。
小倉
そういう意味でいうと、アート2.0っていうのは、アプリケーションとしてのアートからOSとしてのアートへの変化だと思うんですよ。僕は微生物をやってますけど、オペレーティング・システムとしては、アートとかデザインとかがインストールされていると思うんですよ。で、そういう人が今、増えている。
今までって、アートがアプリケーションだったから、アートをやっている人以外は、アーティストと名乗れなかった。今は、アートをオペレーティング・システムとしてもっていて、その上で具体的なアウトプットをどうしますかという話になっているので、そこに少し進化があると思う。僕や、僕と同年代の醸造家たちをみると、それがよくわかる。もともとアーティストだった人とか、今もアーティストの人が多いので。
小倉
僕の本に出てくる、近所に住んでる若尾亮くん(マルサン葡萄酒)とかは、現役のミュージシャンだから。あと、寺田本家の旦那の寺田優さんは、世界各地を旅しながら動物写真家をやっていたみたいなんですね。オペレーティング・システムが、すごくアート的なんですよね。そういう人たちが作る文化が面白いんじゃないかと思います。
熊倉
僕もそこが知りたいんですよね。僕も、アートの世界にずっといて、アートの世界が面白くなっているかというと、ぜんぜんなっていない。そうじゃなくて、「本業」は、日本酒醸造家とか、ワイン醸造家とか、僕の知り合いだと、桶職人のような人たちが、同時にアートをやっていて、そこで起こる「化学反応」が面白いワインだとか日本酒だとか桶だとかになる。そこで「何」が起きているのかが、いまいちよくわからないんです。
小倉
エコシステム的にいうと残酷ですけど、いわゆるアートが盛り上がらないこと自体にも意味があると思うんですよ。OSとしてのアートを持っている人たちを盛り上げるために、前の世代のアートがしばらくつまらない必要がある。生物においては「じっと影を潜めている」ということ自体にふるまいとしてすごく意味がある。だから「アートを面白くしたい」というより「アートがつまらない」ということにどれくらい積極的な意味があるのかを考えるのもアリですよね。僕の周りでは、アートというオペレーティング・システムをインストールしている「アーティストじゃない人たち」の才能が爆発している、と。それに対して、現代美術は下降気味である。このあいだもコンテンポラリーダンスの芸術祭に呼ばれて、ダンサーの捩子(ねじ)ぴじんさんと話したけれど、現代舞踏も行き詰まり感がすごい。僕の中では両者が関係している。アートがつまらないことにポジティブな意味が感じられる。両方とも面白かったら、価値の判定ができない。こっちがつまらなくて、こっちが面白いことで、初めて比較できて、問題提起ができる。だから、ここ数年純粋アート的なものが面白くないとされることには何かエコシステム的な意味がある。
熊倉
僕の大学時代からの友達で、今、大分県立美術館の館長をやっている新見隆さんは、日本とヨーロッパの近現代デザインの専門家で、最近イサム・ノグチについての本を出した人がいるんですけど、その本を読んでいてあっと思ったのが、いわゆる「アート」界のエッジにいたノグチや、北大路魯山人とか、勅使河原蒼風とか、岡本太郎とか、そうした「変人」たちは、今小倉さんがいったOSとしてのアートをインストールしていた人たちだと思うんですけど、彼らは結局「造形」にしたかった点が、今クリエイティヴな人たちと違うように思うんですよ。
小倉
今僕たちは、「造形」ではなくて「出来事」をつくることに意味を見出している。なぜかいうと、出来事が伝わる回路が多様化したから。昔は、「出来事」を作っても、政治的な回路やマスメディアに載せないと拡散しなかったんですけど、今はSNSとかあるので、政治的な力学をすっ飛ばして拡散できてしまう。僕は、「造形」も好きですけど。
小倉
すごい興味をもっているのが、「人間にとって食べるとはなにか」っていう問い。僕は、栄養を吸収するということ自体がものすごく深いっていうことが、分子生物学的に理解できるようになってきたんです。人間が食べて身体を成り立たすっていうことをものすごく細かくみていくと、そこに文化の起源とか宗教の起源とかがみえてくる。それを、何年かかけて掘り下げたいっていうのが一個あるんですよね。それは、『発酵文化人類学』の、さらに先の、より大きな問いなんですけど。
例えば、直接発酵とは関係ないんですけど、インドのヒンドゥー教の文化のなかでなぜ肉食が禁止されたのかっていう話をみていったときに、人間が身体を成り立たせるのに一番基本的なのって炭水化物とタンパク質なんです。それをどのような方法論でとりだすかっていうところで文化のモードが分岐してきた可能性が高い。インドは人口密度がめちゃくちゃ高いので、肉食だと環境負荷がでかすぎて、肉食でタンパク質をとるとなると、その人口密度を支えていけない。ではインプットに対して収穫という出力が大きい、肉よりも効率よくタンパク質を摂取できるものって、インドの気候においては豆なんですよね。ヒンドゥー教における肉食禁止は宗教的な教えとされているけど、僕はそれは違うんじゃないかと思っていて。昔の人はリアリスティックに栄養のことを考えたときに、「あ、肉食にしたら社会崩壊するから、肉食べちゃだめっていうことにしておこう」、「じゃあそれは神様の教えですよ」っていうふうにア・プリオリなものにしたんじゃないかって思っていて。人間が文化によって経済や政治的な活動のモードをつくりだしてきたっていうのが文化人類学の言い分だとすると、僕はもう一回それをひっくり返そうと思っていて。タンパク質とかアミノ酸とか、生物学の要素が人間の文化的なもののコードをつくりあげさせたんじゃないかっていうふうに、逆転させられるんじゃないかと思っているわけです。
で、そのいちばんわかりやすいテーマが、「人間にとって食べるとはなにか」ということ。そうすると、今まで僕たちが文化をみていたり、食べるっていうことをみていたり宗教をみていたりする視点が違ってくるだろうということが分かってきた。
それが、僕の中の次の大きな仕事かな。
熊倉
生物学に関しては、何の知識もないですが、僕なども、瞑想をやっていて、ディープになっていくと、細胞内でATPが発しているエネルギーが身体中を駆け巡っているのが見えてきて、全身が発光しているように見えてくるんじゃないか、と思うんですよ。ヒンドゥー教でも、仏教でも、そういう精神状態になる修行があります。
今のヒラクさんのヒンドゥー教の話は、栄養素に関する話だったけれど、生体エネルギーも、宗教の立ち上がりに深く関係するんじゃないかと、話を聞いていて思いました。
小倉
微生物の世界に「クオラム・センシング」っていうコミュニケーションの方法論があります。微生物には脳がないので、何かを思考して意図的に決断することができないんだけど、微生物群がある種の社会を作って、何かしら社会的ふるまいをするということは現実にあるんですよね。
環境の変化しやすい境界線にいるある微生物が、環境が変わるからこういうことしなきゃっていうサインを出すんですね。そのサインを、どれくらいのやつと共有できたか、SNSの「いいね!」みたいなんですけど、その閾値を超えたときに、そこの中にいる微生物のほぼ全部が、一致団結してはたらく。その例として、多数の菌が「バイオフィルム」というドームを作ろうとするんですよ。それが皮膚上で起きるとニキビの原因になります。
クオラム・センシングって、脳みそや意識がない状態での意思決定の方法なんですね。人間にもそのような感覚があるはずでしょう。基本的に微生物から進化してきたわけだから。
お腹のなかの微生物たちが脳みそにセロトニン出せ、というのは、クオラム・センシング的にやっているんですよ。自分のお腹の中の微生物群の餌がなくなったときに、一匹が出しているサインをみんなが共有して、「ヒラクくんにもっとりんご食えって言おう」と。そうしたらそのサインが僕の意識に影響して、「りんご食いてえ」みたいなことになっていく。つまりクオラム・センシングが脳的な意識をハッキングしている状態になっている。マインドフルネスは、それを意図的にやろうとしているんじゃないでしょうか。あるいは能楽師の安田登さんが言っている能舞台のダイナミズムも、クオラム・センシング的なんじゃないかと思うわけです。
熊倉
ふだんもそうなっているんだろうけど、人間は意識があるから、見えなくなっている。でも、瞑想が深まってくると、それがわかりやすくなってくるし、こういう風にすれば、この人とこういう関係が結べるということが見えてきます。
小倉
例えれば暗闇で物を見る訓練だと思うんですよね。人間にも直感、意識とは少しレイアーが違うコミュニケーション回路があって、それはすごくオブスキュアなものであるのに対して、意識のレイヤーはあたりまえだけどアタマで意識することができる。それに対して、クオラム・センシング的な直感は、身近なわりに仕組みを明確に構造化、定量化できない、複雑な発酵食品みたいになっている。
さっき言った因果関係だけで世界を見るっていうのは、本当にホリスティックなのか。因果関係でないものの見方というのは、それなりの作法、リテラシーがいるじゃないですか。それをどういう風に鍛えるか、その方法論の一つが芸術だし、発酵だと思うんですよ。だから、発酵をやっていると不思議な感覚がだんだんわかってくる。今、微生物がどんな感じなのかっていうことが、こういうもの〔と目の前のボウルを指して〕を見ているとわかってくる。でも、最初わからなかったんですよ。「あっ、今温度変えなきゃ。」みたいな。今、こいつらの調整をしてあげると、もう少しきれいに発酵する、というのがわかるようになってくるんです。芸術におけるすごく微妙なセンスを嗅ぎ分けてアウトプットを調整する力って、定量的な意識でないものを感じて引き出す力じゃないですか。発酵のエッセンシャルな部分もそうなんですよ。発酵は、さらに美味しく食べるっていうのがついてくるんですけど。発酵は直感や感性を鍛える訓練になるんですよ。
醸造家が元アーティストとか、今アーティストをやっている人が多いっていうのは、やっぱり感覚が似てると思うんですよ。僕の仲の良い店の旦那とかちょっと見、お調子者のお兄ちゃんだけど、一緒に飲んでいると、「あっ、麹菌が呼んでる」といって、帰っちゃうんですよ。それで、30分後くらいに戻ってくるんですよ。「なんでそんなことがわかるの?」て聞くと、「なんとなくわかる」そうで。酒屋は酒屋で、味噌屋は味噌屋で、醤油屋は醤油屋で、みんなそんな感覚があって、「あ、今日はこんな天気だから、これぐらい櫂入れしなきゃいけない」とか、「ま、こんな香りだから、何度くらいにしたらもっと香りがよくなる」とか、そういうのは、データを超えたセンスなんですね。ある種のセンスが、超人化していくんですよ。
感覚が微生物化していく。僕は、勝手に「微生物的人間」って呼んでるんですけど。なんか、クオラム・センシング的なものを会得しているんでしょうね。