新鮮な世界を生きるための世界の観方
ジョン・アイナーセンさんへのインタビュー
1986年、サッカーメキシコW杯でマラドーナが活躍し、チェルノブイリ原子力発電所では事故が起きた年。多様なテーマと質の高い記事、美しい写真、「INSIGHTS FROM KYOTO-JAPAN-ASIA」というコンセプトによって構成される『KYOTO Journal』は、その年に第1号を発刊した。以降最新刊の89号(2017年10月末時点)まで、米国西海岸で生まれた『Whole Earth Catalogue』からの地球規模の大きなムーブメントに起を持つその雑誌は、高品質なメディアであり続けている。日本でインターネットが普及する前から世界中のライターや写真家と共創しながらフルボランティア、非営利で。その中心にいるのが、『KYOTO Journal』発起人であり、編集長ジョン・アイナーセンさんだ。
約30年間彼を突き動かしてきた原動力、そこには私たちが自覚すべき京都、そして日本の可能性があるように思う。毎号何十人にもなる協力者たちをモチベートし、クオリティを維持し続ける組織運営の仕方にも、これからの創造力のインフラとなるヒントがあるように感じていた。
取材を申し込むと、東山・南禅寺、そこがジョンさんが待ち合わせに指定した場所だった。
愛用のロードバイクとカメラとともに 京都にある文化を世界へと発信する。
1986 年からはじまった『KYOTO Journal』 は、2011 年からはオンライン版へ移行、 これまでに 88 号を有志によるフルボラン ティアで発刊している。
私たちが今「芸術家」と呼びたい人たちは、まだ社会で価値が決まっていない「言葉にはできない」けれど、本人には動かざるを得ない、形にせざるを得ないことをやりはじめた人たちです。目的が定まらないなかでも動きはじめる人、そういう人を僕は全員「芸術家」だと思っています。『PLAY ON』という言葉のもとで照らしたいのは、そういう創造的実践者たちです。
たしかに、アートというのは言語化されていない世界。既にアーティストがやっていることというのは、言語化されていない領域のことだと思う。写真であれ、何であれね。意識化されているけども、言語化されない意識のこと。
「ジョンが30年前に日本に来て、『KYOTO Journal』をはじめたこともそれにあたると思う。
そう、今、「PLAY:遊び」って言ったけど、それはとてもとても大事。
「遊ぶ」という要素は、アートであっても、イノベーションであっても、全てにおいてとても重要な要素。遊びがなかったらオープンにはなれない。スペースを持つということ、余白を持つということは、とても大事だと思う。アメリカでも教育や子育ての現場で、これまでのやり方が見直されて、遊びを持たせるという方向性になってきている。今の社会には遊びがない。だから、忙しいだけで、しかも遊びを持つことが罪でもあるかのように言われてしまっている。
でも「遊び」がなければ、新しい価値に気づいていくこともできないし、それに新しいイノベーションもできないと思う。
僕が写真を好きなのも、そういうところにある。写真というのは、意図が強すぎると撮れないことがある。「これを撮らなきゃ」とか、「あれをこういう風に撮らなきゃ」とか、そういうことで忙しくなってしまうと、結局のところ大事なものに気づくことができない。そこにあった素晴らしいもの、美しいものに気づくことができないんだ。
そこで、僕が大切にしているのは「NO INTENTION」。つまり、意図を持たないということ。その意図を持たない写真というのが、僕にとっての写真なんだ。
そして「遊び」の解釈というのは、いろいろな意味があるけど、僕にとっての「遊び」というのは、意図を持たないということだよ。
例えば、古い茶人たちは、その遊びのなかでお茶をしたよね。ただ、そこにいて。まさに禅的なものだと思うけど。ただ、その空間を楽しむということをしていたよね。僕は、何かをマスターしていくということと、意図を持たないという意味での遊びというのは、矛盾することではないと思う。自分が写真を撮るときに探してるものというのは「経験の新鮮さ」。それを求めている。求めているというよりは、自らをオープンにして、それが入ってくるのを待っているんだ。もし意図を持ってしまうと、それは絶対に起こらない。
だから自分の本についても、「観て」いるんだ。
KYOTO Journal』はどうやってはじまったんですか?
京都に住んでいる外国人の人たちがよく集まって、詩やアートとかをディスカッションする場があったんだ。それぞれの人が、それぞれ違うところから、それぞれの理由で京都に来ていたんだけれども、共通していたのは「京都には何か他と違うものがある」と思っていたことだったんだ。
ジョンさんにとって、京都にあったスペシャルを言葉にすると?
僕はコロラド州デンバーのレイクィットというところで育ったんだ。デンバーはコロラドの首都で、コロラドはCentennial State(センテニアル・ステート)と呼ばれている。Centennialは「百年祭」という意味。つまり、アメリカが1776年に国になってから100年後に州になったところなんだ。その100年後くらいに僕は生まれて、育った。だから僕にとって、自分が見てきた、学んできた歴史というのは、100年の長さしかない歴史だったんだ。基本的には、全部が「新しいもの」という認識だよね。そして、僕は京都に来て働きはじめた。この京都の古くから続く、密度の濃い歴史が生みだす、とてつもなく複合的な感触というものが相当強烈だったんだよ。とにかく、コロラドで育った青年としては、街で最も古いものでもせいぜい100年前に建てられた牛小屋でしかなかったんだ。京都のように「長く続く、濃い伝統」というものを見たことがなかった。それがとても強烈な印象だったんだよね。
そして二番目に、「美意識」、「美的感覚」というものが全く異なっていた。本当に「優雅で慈悲深い、美しいもの」が日本にはあったんだ。アメリカで見たもの、それまで育ってきた環境でのアートとは、全く異なる優雅さに魅了された。そう、とにかく魅力的だったんだ。今日みたいに南禅寺に来ては、何回も屋根の曲線を眺めいていた。あの曲線がとても優雅で、壮大で、「ああ、どうやってあの慈悲深く、優雅で美しい曲線を作ったのだろう」と思っていたよ。
それで当時、京都にたくさんいたライターやアーティストと「一体これは、何なんだろう」といつも思っていたんだ。その感覚というのは、30年後の今も変わらず持っているよ。
そしてその時、西海岸サンフランシスコで生まれた「CoEvolution Quartely」という雑誌にも影響を受けたんだ。スチュアート・ブランドという人がエディターだった。
西海岸では、ヒッピーたちが集まって、すごく大きな文化的なエボリューションがあったでしょ?その中でも高い教育を受けた知識人たちが「どうやったら、このムーブメントで社会の構造に影響を与えられるか」ということを考えていた。スチュアート・ブランドは、その一人で、彼はその道をつくった人。
彼らが至った結論としては、人々は「良い情報」にアクセスする方法を必要としている、ということ。それは、学校とかテレビとかで得られる情報ではない情報で、自然と調和する生き方をつくるためのものだった。つまり、人々は、「新しい文化をつくるための情報やツール」を必要としていたんだ。そしてそれは、アメリカの資本主義的なものとは逆の文化、自然と調和しながら良く暮らすための情報だったんだ。そういう知識を持った人たちのなかに、莫大な遺産を受け継いだ人がいて、その人の資本をもとに「大きな本」がつくられた。その本には、ツールや情報が書かれていたんだ。それはつまり『Whole Earth Catalog』。
それでその本から得た利益を使って『CoEvolution Quartely』という雑誌がつくられたんだ。それはとても優れた雑誌だった。当時、僕と仲間はこの本にかなり傾倒した。新しいアイデアやイノベーティブな考え方に溢れていて、とても刺激を受けてたんだ。『CoEvolution Quartely』が届く日が本当に待ち遠しかったのを思い出すよ。
そして、この雑誌に書かれているようなアプローチにみんなが興味を持っていたんだ。この雑誌のテーマは本当に広くて、アーバンパーマカルチャーから、チーズの作り方、アフガニスタンを歩くとかまで、いろいろなことが含まれていたんだ。同時に、京都にいる僕たちは、「強烈な印象」を京都から受けていた。自分たちが生まれ育った環境とは違う刺激に満ち溢れていて、それをどうやったら共有できるのかという気持ちなっていた。だから、英語で雑誌をつくろうという話になったんだ。
この『CoEvolution Quartely』の物の見方とか、コンテンツの作り方とかっていうのは、非常に広いテーマからある種の価値観を持ってつくり上げるというコンテンツのつくり方だった。僕らはそれにすごい影響を受けた。この雑誌に載っている記事は誰もが「この記事はすごい、見て!」と、人に紹介したくなるような記事がいっぱいあった。そういうコンテンツのつくり方っていうのをやりたかったんだ。
実は、『CoEvolution Quartely』は、日本を特集したことがあって、その時は『KYOTO Journal』が協力したんだよ。ギャリー・シュナイダーという『CoEvolution Quartely』のライターの一人が、『KYOTO Journal』の初期メンバーの1人でもあったんだ。ギャリーは、ここ最近100年のアメリカで最も偉大な思想家の一人で、非常に有名だったし、影響力もあった。それで『KYOTO Journal』が書いた記事が『CoEvolution Quartely』に掲載されたりもしたんだよ。
例えば、代表的なものとしては、鯨の捕鯨のことを説明した二人の文化人類学者の記事が掲載されたことがあったんだ。それまでのアメリカ社会では、捕鯨に対しては反対的な意見がすごい強くて、ほぼ全員が捕鯨に反対していた。けれども、文化人類学的な観点から日本での捕鯨は単純なものではないということが『CoEvolution Quartely』を通じて説明されたりしたことがあったんだ。
もう一つの重要な側面としては、最初に集まっていた僕らの仲間は、全員が英語の先生だったんだ。その当時、英語の先生は週40時間も働く必要がなかった。つまり時間があったんだよ。だから情熱だけで、商業的なこと考えずに雑誌づくりに集中していくことができたんだ。そして、そのうちにスポンサーが付いたんだよね。
創刊から現在まで大切にしてきた価値観は?
雑誌をつくるときに1番大事にしているのは「Just be open to see what’s coming to you.(何に対しても、「オープン」でいること)」だよ。少し前に話したように意図を持たない、それが一番大切な価値なんだ。
意図を持たないで、どうやって編集ができるの?
もちろん、例えば、何かを特集をする時とか、誰かにインタビューする時とか、すごく限定された意図としてテーマを決めることはあるよ。だけど、テーマはあるにせよ、最初からプランを決めているわけではない。最初からそこに当てはめようという意図は持っていないんだ。でも多くの場合は、いろいろな人が同時期に書いたり撮ったりしてくれたものが、自然と繋がっていたり、なんらかの接点あったりするんだ。その接点を観ていくということが大事だと思っている。
予算というものがないから、予算を元にページ数を決めたり、依頼する写真家を決めたり、テキストの長さが決まったり、ページ割が決まったり、そいういう心配が一切ないんだよ。僕らの場合は、集まってきた素材を編集したり、組み合わせることで、「自然と発生していくような進化の仕方」をしてきた、つまり「オーガニックな進化の仕方」をしてきた。何か価値があるものと出会った時にそれを記事にして、集まってきた記事の接点を繋げていく、ということ。それが、すごく良かったと思うんだ。時には最初の発想とは違う方向にいくこともあったよ。でもそんな時は「Best thing happens on the verge of falling. (最高のものというのは、崖っぷちで現れる)」という人もいたりね。
創刊からずっとそのやり方で?
そうだね、いつもそのスタンスだったね。常にそういうやり方でやってきた。それで毎回問題が発生しては、その都度、解決してきた。それがやってきたことの全てなんだ。日本語で何て言うか難しいけど、「It become what it is.(成るように成る)」とういうこと。こうあるべきというアイデアだったり、意図というものでは、絶対に到達しないようなやり方でやってきたんだ。
創刊から今までで、その価値観が一番うまくいった、ワンダフルにできたのはどれ?
たくさんあるけど、たぶん50号。「Transience : 無常」という特集かな。あとは、75号の「Biodiversity: 生物多様性」も非常に良い経験になったよ。他の号も、そういうことは多々あるんだよ。最初から最後まで一つの号を読みきる人がいたならば、始まりと終わり、記事の間に、いろいろな繋がりを見つけられると思う。
この50号と75号は、他と何が違ったの?
50号と75号は、ある意味でキリの良い数字で到達点として記念できるような号ではあったから、「特別な号にしていくぞ」という気持ちはあったんだ。でも、振り返ってみると、自然にそうなっていった。結果的に、集まってきた記事がやっぱりすごかった、というのが一番の理由だよ。
すごい楽しかったこともあった。50号は春に出たんだけれど、その準備をしていたのは前の年の秋。その時に、それぞれのメンバーがお寺や京都御所で紅葉の葉をたくさん集めてきて押し花にしたんだ。そして、購読している人には全員、50号の冊子の間に紅葉を挟んで届けたんだ。世界中に購読者がいるから、京都から紅葉が送られてくる、というのを想像すると少しハッピーだよね。
そういうことは、つまり「遊び」があるからこそやれる。「遊び」があるから起きることなんだよね。
そういう瞬間がモチベーション?
もちろん。だって、楽しいじゃない。
創刊から今までそれを続けてきて得たもの、或いは、学んだことは?
1つは、「how to handle adversity」。つまり、毎回生じる様々な困難への対処の仕方を学んだんだ。困難を前にした時に、それに反応するのではなく、心配するのでもなく、それを焦って修復しようとするのでもなく、ある種の諦め、降参するに近い感覚で受け入れる。つまり、「コントロールできないものがある」ということであり、「物事はコントロールするようなものではない」ということなんだ。
もう一つは「プロセスを楽しむ」ということ。雑誌というのはでき上がってしまえば、ただの紙のブロック。でも、それをつくるまでの過程でいろいろな人との交流があったり、問題を解決したり、やり過ごしたり、そういうことがある。それを楽しむということが大事なんだ。
若い頃の自分に対して、学びを得た今だからこそ伝えたいことは?
おそらく何もないと思う。僕は過去の自分に何も言わないし、何も教えないと思う。なぜかといえば、それは「naïve(無垢である)」ということなんだよ。つまり、「何も知らない」ということがすごく重要な価値なんだ。何も知らないからこそ、こんなにたくさんの問題が起きるということを知らなかったからこそ、僕は始められたんだよね。「Being naïve is actually good quality for creating path.(無垢であることが、良い道をつくることを可能にする)」。毎回毎回、いろいろな問題が起こるけど、それを解きながら「道」はつくられていく。だから、もし無垢じゃなかったら、その「道」はつくられていないと思うんだ。僕はそれが「真実」だと思う。