WORKよりもPLAYを、MUSICよりも音楽を
野村 誠さんへのインタビュー
あらゆる価値観や領域を超えて、人が放ってはおけないような出来事こそが、社会を劇的に、でも静かに変えるように思う。例えば、音楽のように。
野村誠さんが実践する音楽は、そんな音楽そのものを変えようとする音楽だ。小学校3年生で現代音楽家になろうと決めた少年は、常に「作品(work)」という概念から自由になる方法を、「演奏(play)」の力を最大限に発揮する方法を求めて続けている。様々な共同作曲手法を生み出し、子ども、老人たち、動物たち、演劇、ダンス、映像、記録、自然環境、畑、相撲、瓦、そして北斎の版画までと作曲している。音楽が前提としてきた様々なものを、音楽によって飛び越えていく姿がそこにはある。
そして、「遊び」という言葉を、いつか「作曲する」という意味にしたい、という野村さんのご自宅に伺った。
PHOTO BY Kazuhiro Uchida(Life Market Co.Ltd.)
広島現代美術館「音であそぼう!野村誠の音楽室」の様子。まさに音で楽しむ野村音楽の世界。
今芸術とされているよりも、芸術的なことを生み出している人がたくさんいる。そういう人たちの実践をこそ、芸術と言えるようにならないか、という思いでこの企画を進めています。
そういう人いる?いろいろなところにいるんじゃないかって気がするんですけど、どれくらいどこにいるのか。まだ出会えてない人が多いんだろうなって思っていて。少なくともアートのフィールドでは、変な人とか、おもしろい人とか、若い世代でバンバンでてくる感じは全くないと言ったら言い過ぎなんですけど、みんなお行儀がいい。
アートのフィールドではないところに、たぶんいるんだろうなって思うんだけど、まだ会わないなあと思っています。
野村さんが、ご自身の本のなかで“「作品」はwork(仕事)、「演奏」はplay(遊び)”という言葉の違いに注目しているところがあります。本日は、野村さんと「play」を深めてみたいと思ってきました。
演奏することを「play」と言います。英語で「play」、フランス語で「Jouer」、ともに「遊び」ですよね。だから「play」するのは大事だと思うんです。世の中では、作品のことを「work」って呼ぶんです。僕も「work」をつくるんですけど、「work」を作る上で、「play」をやめるのはまずいなっていう感覚があります。そもそも音楽も演劇もダンスも、作品をつくる人はプレイヤーでもあった。しかし、20世紀以降、現代音楽や現代演劇、現代舞踊といった「コンテンポラリーなんとか」となるに従って、作品をつくる人が「play」しなくなることが多くなった。スポーツでいうと監督が肥大化しているような傾向が強くあるんですよね。でも、試合をするのは監督だけじゃない。選手が一番大切だと思う。選手がいなかったら、監督が何を言っても試合はできない。でも、よく演出家や振付家のインタビューをするのに、俳優やダンサーのインタビューはしないんです。監督だけじゃなく、ホームラン打った選手にもインタビューして欲しい。もちろん、外から見ているから監督が客観的に判断できることも多い。しかし、同時に、中にいるから、現場で起こっている一番微細なことを、プレイヤーは瞬時に把握し判断できるのです。当事者だから、分かることがあり、当事者の声は、もっと尊重されていいはずだ、と思うのです。そして、プレイヤーが本当に「play」できる環境が整った方が、もっといい試合ができる、と思う。スポーツでもパフォーミングアーツでも、生ものなので、いくら事前にプランしても、瞬間、瞬間、様々な要因で変わっていく。監督も大切であるけれども、プレイヤーは本当に重要。プレイヤーが何を考え、何を感じているのか、そこに、もっと光が当たっていいと思っています。そして、プレイヤーが語る場、プレイヤーの言葉を聴く場を、もっと増やしてもいいと思います。演出家や指揮者や監督のコメント以上に、演奏家、俳優、ダンサーなどのプレイヤーのコメントを引き出す仕組みがあってもいい。
「play」しながら「work」もつくり、「work」をつくりながら「play」する。
うん。その「play」と「work」 の間に断絶というか、溝があることが多いんです。今僕はオーケストラの楽団員とワークショップをしているんです。オーケストラの仕組みというのは、全体を方向付ける指揮者がいて、楽団の演奏の現場監督としてのコンサート・マスターがいて、各パートの代表として首席奏者がいて、トゥッティの演奏家がいる、となっています。作曲家がオーケストラに対する時は、通常は、指揮者が窓口になり、指揮者に「こうしたい」と伝えれば、指揮者はそれをオーケストラ全体に伝える、各パートの首席が、「このパートはこういう弾き方に変えましょう」と伝える。そういう指示系統になっている。だから、作曲家である僕が、楽団のメンバーの誰かに直接何かを伝える機会は、通常ならばなかなかないわけです。だから、ワークショップで、オーケストラの楽団員と直接に接する機会があることは、とても新鮮な体験でした。そうした経験を通して、オーケストラの楽団員の特長が見えてきました。リードすることよりも、フォローすることで、才能を発揮する職業なんです。指揮者や首席奏者の指示をフォローしながら自分の音楽性を出す仕事。指示を受けて、それを瞬時に汲み取って対応することがうまい。
フォローが得意な人達に、「もっと能動的に」と求めることはしないんですか?
フォローというのは、受け身とは限りません。積極的に、指揮者の意図を汲み取ろうとする行為は、そもそも能動的です。それに、「play」って、別に「自分が、自分が」とエゴを出すことではない。オーケストラ・プレイヤーは、うまくフォローする中に、自分の色を出すことができるのです。ワークショップをはじめる前の説明会で一人のバイオリン奏者から「野村さんの活動の映像を観ましたが、あれは野村さんが楽しいだけなんじゃないですか?」って、率直な質問を受けました。ワークショップを数ヶ月ご一緒させていただき、 その方が「最近、自分たちの演奏会の評判がいいんです。その理由を考えたんですけど、自分たちが楽しんで演奏してるからだ 、と思ったんですよ」と仰った。やっている人が楽しんでないものは、聞いている人も楽しいわけがないとのこと。「play」の本質に関わる貴重なお話だと思いました。
今回インタビューさせていただいた方々に共通していることに、世の中の価値観に合わせて動くことよりも、自分が歓びを感じる方向で進んきたうちにいつのまにか後ろに道が出来てた、みたいなことがあります。
道はね、できますよ。進んでけば道はできますから。僕最近、相撲と音楽のプロジェクトをやっていて、相撲界では「3年先の稽古」って言葉があるんです。「今日やっている稽古は、3年後の土俵に活かされる」って。相撲の稽古は、今日、明日の結果をあげるための稽古ではないんです。この状況で負けたから、そこだけをピックアップして、集中的に練習すると、目先の成果に直結しますけれども、そういう稽古はやりません。もっと、大きな視野で、目先の結果にとらわれず、自然に体が動いて、どんな状況でも対応できる身体をつくるための稽古をするわけです。だから、成果が出るのに時間がかかる。しかし、実はそれが最速で唯一の方法なんですね。楽器の練習でも、今日練習して、今日上手くなることはないです。コンサート直前に練習したって、本番には活かせません。練習しないでリラックスしたほうが、今日の本番だけで考えたらうまくいく。でも愚直に練習することは、3年後の本番に繋がるから、やった方がいい。
野村さんの本を読んでいて、この人はとても早い時期から自らのいく道が定まった人なんだなって感じました。
道を選んできた感覚はないんです。道を切り拓いてきてるのですが、実は、何かに誘われて進んでいるうちに道ができたような気もするんです。いろいろな偶然も含めてお膳立てされた結果、この道を歩んできている。「なんで僕はこうだったんだろう」っ思うくらい、いろんな意味で不思議です。今考えてもおかしいですよ。小学校3年生の時に出会った最初のピアノの先生は、音楽教室のグループレッスンの先生なんです。でも、はじめてグループレッスンの教室に行ったら、僕以外の生徒が誰も来ない、たぶん手違いで。誰も他の生徒が来ないから、先生は音楽教室の教科書をやらずに、現代音楽の話をしてくれたり、楽譜をみせてくれたり、バルトークのレコードを聴かせてくれたりした。そんな状態が僕の記憶では2ヶ月間続いた。それが突然10人ぐらいの生徒が来るようになったら、音楽教室の教科書を使ったレッスンをするわけです。衝撃ですよ(笑)。8歳でもはっきりわかるんです。この先生は全然違う音楽が出来る人なのに、急に教科書的なレッスンになったっていうことは。このレッスンの内容は、この先生が本意でやっていることではないって。僕がはじめて教室に行った時に他の生徒が来ていたら、しかもそこにいたのがその先生じゃなかったら、その音楽の違いに気付きようがなかった。偶然の偶然が重なった上で、僕はそこで衝撃を受ける体験をした。だからその後、僕はその先生の家に行くようになった。
今回インタビューさせていただいた方々の共通点のもう一つ、「誘われていることを信頼している」ということでもあります。
誘われてます。誘われてるっていうのは、風に乗るんですね。風が吹いているところで、いち早く風を感じて、風に乗るんです。逆風が吹いているところを逆らって進んでもダメなんです。アイデアは山ほどあるんです。でも、それらは風が吹いている時にやらないと。1人ではできないことが多いので。風に乗るという感覚は、いろんなものと共鳴する、共振する、ということでもある。
楽器というのは一つの音を鳴らすだけじゃなくて、部屋全体と共鳴するとか、床も鳴らすとか、いろんなものも一緒に鳴らさないと楽器は鳴らないわけです。ピアノの弦だけを鳴らすつもりで鳴らしてても、その音はそんなに広がらない。音楽って、共鳴させるツボを知っていないと。一人で鳴らせる音なんてしれてるんです。うまく共鳴 し合う、共振し合うツボに乗ると、力を使わなくても音は通る。楽器のここだけを鳴らすんじゃなくて、その鳴らしたものがここにもあそこにも響いて、この部屋全体、もっと言えば、世界全体が鳴るためにどう音を出すか。そういうことなんです。
誘いについて信頼するということは、メッセージをピックアップするセンサーが働いて敏感だってことですよね。「今これやるんだな」とか「今これやめといた方がいい」そこを自信をもってやれるのは大きいかもしれないですね。自分の直感よりも、もう少し理屈の通った説明、理由づけを信用したくなる誘惑はあるんですけれども、自分の直感を信じる。僕は、理由づけは後づけだと思ってます。その時はなんだかわかんないけどやる。だって直感の方が断然早いし、その道通ったらどういうことがあるかなんてことは説明できないですよ。経験則として直感の方がだいたい正しい、だから正しい判断をできるために直感を鍛える方がいい、と思っているんですね。
歩みはじめる前に、その先に得れることを考えてしまって歩めない人も多いと思います。
お金になるってことは全く考えてなかったですね。幸運にしてお金にはあんまり興味がなかった。だってお金稼いでる人で、いい音楽している人はあんまりいない、そういう感覚はあった。もちろん、生きて行くためには最低限は稼がなきゃいけない、ではどうやって生き延びていくかってことを…はたして僕は…考えたんでしょうか(笑)。大学生になった5月ぐらいで強く思ったんですよ。太平洋戦争で死んでいった人たちのことを思った。「僕らは自分のやりたいことをやっても、命を落とす可能性は低い」と。「ほんとはこれがやりたかった」「あれがやりたかった」と思いながら戦争に行って死んでいった当時18歳ぐらいの若者たちが見たら、こんな恵まれた環境で、やりたいことやらないで暮らすなんて、もうその人たちにあわす顔がないと思ったんです。今この時代に若者やってるのに、やりたいことをしないのは絶対ありえない、と思って。今この時代なら、少々貧乏になるとか、食べるものが貧しいぐらいで、やりたいことはできるんじゃないかなって。だから、食える食えないとかそんなことは、その後はほぼ考えませんでした。そして、なんとかなりました(笑)。
野村さんが音楽において探求してることってどんなことなんですか?誰もやったことがないこと、それとも、まだ自分でできないことができるようになることですか?
音楽ですごくおもしろいのは、保守と革新を共存させないといけないことなんです。楽器を演奏するっていうのは、技術の習得とか、古典を学ぶことであったりするから、音楽家は保守的になりやすいんです。楽器が弾けるようになるためには、いろいろなものを習得して自分を型にはめていかないといけないから。だから、自分を型にはめながらその型を打ち破って、さらに新しい型を作っていくっていうことなんです。なにも習得しなければ、簡単に自由奔放にできるです。ピアノを全く知らない人であれば「これは一体何をする道具だろう」と思って、思わぬところを触ったりすると思うんですけど、しかし、それではそこから先に行きようがない。技術を習得していくという保守的なことをしながら、そこに留まらないでやっていくのは、難しいんですけど、面白いことなんです。イノベーションとコンサバティブを同時に自分の中に矛盾なく内在させること。モーツァルトでも、あたらしい音楽つくりながら、バッハの昔の譜面見つけて一生懸命研究したりするわけですよ。単に自由に新しいことを発想していくだけじゃなくて、古典を勉強したり、そもそも思うような演奏ができる技術を身につけたりする。物事が身体化されるのには時間が掛かる。そして身体化されるということは自分があたらしくそのことに対して保守的な身体を獲得するということ。でも獲得したその身体から、もう一回自由になる。獲得して、壊して、ということを繰り返して、新しい風景を見ていく。それはすごい時間がかかります。でも、それが音楽のおもしろさの一つなんです。
さらに、音楽を複数の人でやるとか、沢山の人でやるとかする時には、それを理解したり、広げられる仲間が必要で、いろんな人が同時に育っていかないといけない。僕一人だけでなにかしたってなにも世界は変わらない。僕は、ライバルと競争している意識はないんです。ユニークな素晴らしい作曲家がいたら、ライバルではなく、仲間と思います。芸術やってる人は、チームメイトなんです。足をひっぱりあうとか、論外です。僕にはない才能の持ち主がいたら、そこの部分はその方に任せて、僕がやれるフィールドを開拓して、共存していけたらいいと思う。ただでさせ、芸術家とか作曲家とかマイナーなジャンルなんで、チーム全体で相互作用を経て、いろんなことが実現できたらいいと思う
そうして生まれてきた音楽の新しい景色、野村さんが切り拓いていった道というのは、世界にとってはどういう役割、どのような価値や機会になってほしいな、と思いますか?
いろんな価値を持ったらいいなと思います。僕が作品をつくるとか、プロジェクトをする時って、ある種の自分の子どもというか、また一つ世の中に子どもを送り出したっていう感じなんです。生まれたてのその子がどうなっていくのか、僕自身も分かんないんですよ。この子は「世の中の役に立つのかなあ」「人々に愛されるのかなあ」「出来損ないだったんじゃないかなあ」とか最初は思う。でもそれが、人々に愛されたり、評価されたり、いろんな面を見せてもらったりして、だんだん僕の手を離れていくんです。僕の作品は、僕の所有物というよりは、なるべく僕の手を離れて、いろいろな人のところに広がっていってほしいなあって思っています。博物館に入って標本みたいになるよりも、自分の音楽はずっと生き続ける、生ものであり続けることが、すごい嬉しいことだと思っています。
例えば、国際芸術センター青森というところで、アーティスト・イン・レジデンスをした時に、「音楽畑」っていうのをやったんですよ。五線の畑をつくるという作品で、40メートル×8メートルの五線の畑を宿泊棟の屋上に作ったんです。その時に、青森公立大学の芸術サークルの学生たちと延々と畑を耕し続けた。労働でしかない。そうしたら、その次の年にその大学生たちが「あの野村さんの畑で、また自分たちは野菜育てていいですか」って。そして、その後も彼らは芸術サークルなのに野菜を育て続けたんですよ。そして、今ではその芸術サークルに入ったら野菜を育てるって伝統になって、みんな野菜を育ててる。当時のメンバーは全員卒業し、今では誰も野村を知らないのに。そういうことなんですよね。野菜を育てさせるためにはじめたわけではないんですよ。ただ僕は、「五線譜みたいになる5本の畝の上で、野菜が音符になることやりたい!」と。ただ、大きな畑を作るのは自分だけじゃ無理だから協力する人が必要で。普通なら作曲とは思わないかもしれないんですけど、胡瓜とかツルを伸ばしてだんだんいろんな方向に伸びて、行くところに行く。「この音符はどっちに行くのか」、「君はこっちにいこうとしてるのか」「それなら、巻き付ける物を準備するか」とか。そういうことが、自分的には作曲してるつもりなんです。五線譜を書いて、そこに音符を書くって一瞬でできる。でも、40mの一本の五線の畝を耕すだけで何日もかかる、1個音符が育つのにすごい時間が掛かかる、その時間感覚を体感できることがすごく豊かだなって思って。そんな作品を作ったら、僕が青森を離れた後も、僕の手を離れて作品は生きてたんですよね。
ちなみに今「風に乗れる」と思うことはなんですか?
老人ホームさくら苑とのプロジェクトは、「あ、また行くんだな」って思っています。
さくら苑には、スタート当時の1999年からずっと樋上さんという方がおられたんです。1人抜け、1人抜けと、どんどん世代交代していったんですけど、樋上さんはずっといた。でも、樋上さんも旅立たれてしまった。さくら苑のプロジェクトに関しては、1999年にやってみて、「曲が完成しない」ということが分かったんですよ。これは作曲が永遠に続いていくってことがわかって、作曲の途中だから行き続けなきゃいけないなと、自発的に空いてるときにいくようになったんです。それを10年以上続けて。10年ぐらい経った時に、樋上さんが「この映像を身内に見せたら喜ぶと思う」と。で、僕はその「身内」を「Youtube」って聞き間違えて(笑)。「じゃあ映像のプロジェクトにしよう」と思って、『老人ホームREMIX』という作品をつくることなった。でも僕が自発的に行ってるので「いつ行かなきゃいけない」ということは、全くない。だから樋上さんが亡くなったショックの後は、行くのが難しかったんです。でも最後に会った時に、樋上さんが「一緒に作った歌が、音楽が、そのまま残っていくのは素人の喜びです」と仰ったんですね。その時は「なにを仰ってるんですか、樋上さん。また今度来ますよ」みたいな話をしていたんですけど、樋上さんはそれが最後だってわかっておられたようで「本当にありがとうね」という感じで仰って。樋上さんその時には、認知症がすごく進んでいたので施設の方からも「野村さんのこともお分かりにならないと思います」と聞いていて、だから僕とも初めて会うような顔で挨拶されたので「やっぱりわかってないんだ」って思いながら一緒に演奏していたら、突然「一緒に作った歌が…」って。そして、「この後もずっとやり続けていってね」って仰られたので、「やり続けないといけないなあ」って、そのメッセージも受け取っていた。でも、なかなか行くきっかけがつかめなくて。
でも、この前イギリスに行ったときに、「あなたが高齢者の人と実践したことについて、ノウハウを教えてほしい」っていうので、ヒアリングとワークショップみたいなことを2カ所でしたんですよね。さくら苑のことを思い出しながら、語りながら、自分の気持ちが整理されていきました。さらに今度は、新聞記者の人から、「さくら苑の様子を取材させてほしい」って連絡があった。「これは、そろそろ再会しなさい、と言うメッセージなんだな」って感じた。それまでは、再会しようとしても、施設の日程が合わなかったり、なぜか再会できなかったのが、この時は、すんなり調整が進んだんです。今なら樋上さんが亡くなってから時間も経って、「僕行けるかも」と感じれた。それでさくら苑18年目の次なるフェーズに入れそうな気がしたんですよまた、風が吹いてきた。
PHOTO BY Toshie Kusamoto
お年寄りとの共同作曲を映像に記録、リミックスして、新たな音楽作品を生み出そうという「老人ホーム REMIX」
野村さんは、日本語でも英語でも何語でも構わないとしたら、自分の活動を何という言葉で表現するんですか?
はい、音楽。音と楽しむってことが入ってる、なかなか優れた言葉だと思っているから。英語の「music」 よりも、「音楽」の方が、意味は広いかもしれません。池田邦太郎さんという、元小学校の音楽の先生で、手作り楽器の達人がいます。そんじょそこらの作曲家より格段に面白い人です。「池田さんがやっている授業そのものを、イギリスの小学生や中学生にしてください」って、イギリスにお招きしたことがあるんです。例えば、目隠しバンドっていうのをつけて、音を聞く。「今の音が楽しかった人?」「楽しくなかった人?」と手をあげてもらう。そして、「楽しくなくてもいいんだ、自分の考えを持つことは大切なことだ。」と言う。そして、「その音が楽しかった人にとって、その音はOngaku」って言ったんですね。それで、ストロー笛をブーと鳴らして、「これはあなたにとってOngakuですか?」って質問すると、子どもたちは「YES」って答えたんですけど、「それはMusicですか?」って質問すると、子ども達は「NO」って答えたんです。それを聞いたときに、「Ongaku」と「music」は違うのかと思った。イギリス人の作曲家にその話をしたら、「たしかに君の言うOngakuは、ミュージックよりもちょっと広いかもしれないね」って。「じゃあ、いつか英語の辞書にONGAKUって単語を載せるようにしたらいいんじゃない」みたいな話をしたんです。それは面白い話だなって。しかも、英語だと「sound」と「noise」と「tone」があるんです。日本語だとその間に境界線が無くて全部「音」という。例えば、この椅子が軋む音を、英語では「noise」という騒音になる。でも日本語では「音」なんです。日本語の「音楽」という言葉は、そういうところを分けずに一緒くたに扱える良い言葉だと思います。
野村さんはインドネシアとかでも活動なさっていますけど、音の楽しみ方は違うんですか?
来年は4月から3ヶ月間香港でアーティスト・イン・レジデンスに行きますよ。東アジアのいろんな人たちと連携していたいと、思います。そもそも、日本古来からの伝統と呼ばれるもののほとんどは、日本だけが起源でなく、東アジアの起源のもの。「雅楽」や「相撲」とかにしても、5・6世紀ぐらいに朝鮮半島とか、中国から伝わったものですよね。雅楽は、輸入した当時は大編成なのに、それをある時期にものすごく減らすんです。でも全部、正倉院に楽器は残す。こんな大編成は無理だと思ったのか、すごく簡略化した楽器に変えるんです。そこから今の雅楽の形態のまま1000年くらい続いている。基本的に、日本のほとんどのものが東アジア起源だから、根っこのところで繋がってる。だからナショナリストになって、「日本の文化こそが美しい」とか「日本こそが素晴らしい」とか言うのはナンセンスで、それは、すなわち「東アジアは素晴らしい」と言い換えられるくらいに切り離せない。「根っこを辿れば繋がってる」ということは、大事にしたいと思う。「日本ってなんだろう」みたいなことがあって、「日本」という括り自体が幻影というか。「今線が引かれてるのは国境でしょ?」「文化はどこで国境線を引くんですか?」と、突き詰めていくと「境界線はないんじゃないですか?」ということを大切にしたいと思っています。