時間と空間を超えた大きな家族が叡智を繋ぐ
八木 隆裕さんへのインタビュー
買い替え需要を維持するためにも、売り場での取り扱いを確保するためにも、小さなアップデートとモデルチェンジを繰り返す短命化した商品達に、私たちは囲まれて生きている。100年を超えて使われる道具。今身辺を見渡してそのような品が一品でもあるだろうか。八木隆裕さんが6代目を務める開化堂の茶筒は、そのように使われる品だ。開化堂では、今でも100年前の茶筒の修理を行っているという。そして、100年間変わらないその茶筒のデザインは、ロンドンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のパーマネント・コレクションにも認定されている。その「変わらない」ということを続けていくなかで彼が宿した言葉を聞いてみたいと思った。さらに強く興味を惹かれたのは、Kaikado Caféをはじめとする昨今の展開が「THE 伝統工芸」という世界観を軽やかに、しかも国内外を超えて理解を得る本質さを内包したイメージへとアップデートさせている、と感じれるからだった。
暮らしの変化に寄り添いながら世代を超えて微調整されてきた開 化堂の茶筒は、130年前から変わらない造形美をもつ。
PHOTO BY TAKAHIRO YAGI
Panasonicとコラボレーションしたプロダクトはミラノサローネを沸かせた。
海外で確実な評価を受けながら、カフェのようなあたらしいチャレンジ。そして、伝統工芸の後継者達によるクリエイティブユニット「GO ON」ではミラノサローネへも出展しています。八木さんがどのような思いを胸に活動しているのか、を今日は聞きたいです。
「GO ON」を始めたきっかけは、「職人が小学生から憧れられる世の中にしたいね」って、そういう気持ちからはじまりました。今「野球選手になりたい」、「サッカー選手になりたい」とは言うけど、「職人になりたい」と言う小学生はなかなかいない。だから、まずは小学生が「職人になりたい」と言う、そこを目指しましょう、と。すると、まずは自分たちの親たちの頭を変えていかないといけない。なぜかというと、親たちは、「継げとはよう言わん」という。「継げとはよう言わん」の裏には、やっぱりビジネスとして食べていけないという理由がある。じゃあ、まずは「食べていける職業だよ」ということを世の中に見せよう、と。だから、まず自分たちが稼ごう、と。ちゃんとビジネスとして成り立つのであれば、次は僕たちが本当にやりたい「職人の世界」や、本当の意味での「職人の価値」がどこにあるのか、というのを世の中に伝えていきたい。
僕は、職人の世界というのは、「いいものができて職人」だとは思ってないんです。それを「次の代に繋いでいくことができてはじめて職人」なんじゃないかと思ってる。アートは、例外もあるかもしれませんが、自分の代だけでいかに才能を上げるのか、ということに終始しなければならない。でも、僕たちはそうじゃない。5年後、10年後よりも、次の代までちゃんと同じ仕事ができる、もしくは100年後、200年後でもきちんと修理ができるものをつくっていくことが、僕たちの仕事だと思っています。そう考えたときに、自分たちの代だけで価値を上げていくことに終始するのではなく、次の代にその感覚を繋いでいくことができてはじめて職人なんじゃないかという思いがあるんです。うちは100年前からまったく同じ缶をつくっているんです。今だに同じ缶があって、100年前の缶を修理に持ってきても、部品交換すればその缶に戻るんですね。ゼロをイチにするのではなく、イチをニ、ニをサンにしていくのが僕らの仕事だと思っています。
では僕たちは「どうやって繋いできたんだろう」と考えたときに、「暗黙知」というのが出てきた。僕たちは言葉にできないようなことを言葉にできないまま伝えている、と。そこにこそ価値があるんじゃないか、と。それがあるから「らしさ」というのが生まれる。
このお茶筒は、見た目だけでいうとパイプの端をパンパンと切って、天と底をつければ、うちの缶になる。いまの技術でもすーっと蓋が落ちてくるだけのものはなんぼでもつくれる。でも、うちの缶が残ってきて、売れてるということは、うちだからこそお金を払ってくれる部分、なにか「開化堂らしさ」というのはあるんだろう、と思ってるんです。その「らしさ」というのは、どこから出てくるんだろうとずっと考えたとき、言葉では言い表せないようなことを繋いできた結果、「らしさ」ということになったんじゃないか、と、今思っています。そして、この「らしさ」をつくるポイントに「職人としての価値」があるんじゃないか、と。
普通は「その人にはできないこと」が「お金を払う価値」ということになると思います。僕たちの場合は、「何代に渡っても、ぶれずに繋がっていること」こそに価値があって、よそにはできないことになるんじゃないかな、と。それは日本だけじゃなくて、世界中の職人が持っている価値観。なので、自分の代だけが食べていく分ではなく、次の代に繋ぐための担保としても、お金を払ってくださいね、ということをやりたいと思っているんですね。
これから考えているのは、世界中の職人をまわろうと思っています。日本では考えられない海外の職人の感覚を深堀していくことによって、世界中の職人の価値観が見えたときに、パラダイムシフト的なことが起きたら、と思っています。
正直いうと、今まで職人ってそんなに価値がなかったと思うんです。それはアーティストやデザイナーさんが、職人にモノをつくらせるだけのことだったから。社長みたいな人がつくらせて、売る、それだけのワーカー的な部分がすごく多かったと思うんです。でも世界中でみると、日本は状況が違うと思うし、そういった部分に僕は価値があると思う。今生き残ってきている職人さんを次の代に繋いでいくためには、その人たちがちゃんと稼げなければならない。そういうことをきちんとできるように、自分で価値づけるというよりも、繋がってきたことにこそ価値がある、とまわりが認めてくれることによって、職人さんがちゃんとしたお金をもらえる世の中になるんじゃないかな、と思うんです。
開化堂としてはいかがですか?
うちとしては「100年先までお茶筒をつくりたい」というのが大きな目標です。今売っているこのお茶筒を100年後でも修理ができるようにするのが僕たちの役目だと思ってる。だからこのカフェをつくったという意味もあります。僕は海外にいっぱいものを売りに行って、そこで価値観が変わったからこそ、ここにつながってくるんですけど。
海外への経緯もぜひ教えてください。
実は、僕は親父に「跡を継ぐな」と言われたんです。親父を含めて5人ぐらいでやってた会社ですが、バブル崩壊で一気に売れなくなり、もう「やるな」と。そのとき僕は、英語を勉強していたので、海外の人が京都に来た時にお土産物を買われるお店で、うちのお茶筒を売らせていただいていたんです。ある日、アメリカ人のおばちゃんが来て、うちのお茶筒を買って帰ったんです。「面白そうだな、このおばちゃん」と思って、「何に使うの?」と訪ねたんです。すると、「キッチンで使うつもりよ.」と、教えてくれた。そこで「キッチンで使うっていうことはいけるんちゃうかな」って思ったんです。お土産に買って帰るのではなく、自分の家のキッチンで使いたい。ということは、向こうの文化のなかにうちの缶が入り込む可能性があるんだ、と思ったんです。そのときに、家の仕事を継いでも大丈夫じゃないかなと思ったんです。そこがスタート地点、2000年に家に戻ってきたんですね。
それから本格的に職人をはじめていくんですけど、最初の5年間はもうつくるだけです。海外に売りにいきたいけど、向こうでどうやって売ったらいいのかもわかんない。
5年たったときに、LAにあるTORTOISE GENERAL SOTREというお店が「置きたい」言ってくれました。そこでうちのお茶筒をAnthony D’OFFAYさんが見つけてくれた。彼の息子のTimothy D’OFFAYさんがロンドンで紅茶屋をやっているので、そこでうちのお茶筒を売りたい、と。僕はもうめちゃくちゃ嬉しい。「これはチャンスだ」と思ったので、「ロンドンで実演販売をしたいけど、お金がないからなんとか泊めて欲しい」と交渉して、僕は格安のエコノミーチケットを握りしめて向こうに行ったんです。そして、結構売れたんです。こういうことをしていけば海外でいけるなぁ、という自信になりました。それが2005年ですね。
その後、2014年にVictoria and Albert Museum(以下、V&A)のパーマメントコレクションとして、うちのお茶筒が入ったのも実は、Anthony D’OFFAYさんのおかげなんです。毎年ロンドンに行くと、ご飯を食べに連れていってくれるんです。そして、そのとき、そのとき、ちょっとずつ、ちょっとずつ、僕に足らないことを教えてくれるんです。去年、一昨年は、政治の話をしてくれて、「俺、全然答えられへんわ」って思って、そこから勉強するようになった。すると、いろいろな国の大臣であったり、いろいろな人に会う時に、きちんと日本の僕の考え方を伝えられるようになったんです。そのとき必要なことをたくさん教えてくれる、それがそAnthony D’OFFAYさんなんです。
2005年からロンドンに行くようになり、その後パリにも行きました。パティシエの青木定治さんに「パリもおいでよ」と呼んでいただいて、「デパートでやんない?」と。だから、日本のデパートの感覚で、パリに行ったんです。そうしたら、1つの条件が「日本っぽいコスチュームを着ろ」ということだったんですよ。「よし、しゃーねぇな」って思いながら作務衣を着て行った。1日目、2日目と、あまり売れないんです。お客さんが遠巻きでみている感じなんです。そして、3日目に小学生に「忍者!」って言われたんですよ。「そっか」と。「俺は忍者を見せに来たわけじゃない。ジャパネスクを紹介しにきたわけじゃない。」と思って、>普通の服で実演をしはじめたんですよ。すると、売り上げも変わりはじめた。そのとき「日本を忘れなきゃいけないんだ」と、気がついたんです。日本ぽいものを向こうに持って行っても売れるわけがない。例えば、友達が「中国に行ってきたんだよ」って、すごく中国っぽすぎるをお土産で買ってきてくれても、それを家に飾らないじゃないですか。向こうの暮らしの中に忍び込まないといけないんだな、とそこで考え方が変わったんです。
そのあとは「日本を忘れよう」と。英語のパンフレットのお茶筒が並んでる写真は、光をヨーロッパの朝の光をイメージして撮影して、日本語をできるだけ排除してつくってるんです。日本語のパンフレットは、日本のお昼くらいの光で撮ってます。そこまで考えて、向こうのなかにどう忍び込んでいくのか。僕は、職人は「ええもんつくれて当たり前や」と思ってる。それに加えて「いかにそれをきちんと伝えるのか」ということが、ビジネスでは大事だと思ってるんです。だから「メゾン オブジェ」に行ったときにも、「バイヤーさんとは2年目までは喋らないぞ」と決めていたんです。極東の見たことのない、小さな会社。しかも手作りだと言っているけど、本当に手作りかわからない。さらに、下代も高い。「これはバイヤーさんに買い叩かれる」と思ったので。一方で、メディアの人が来たら喋って、茶匙に名前を彫ってあげて、その場でプレゼントしたんです。彼らは、何千社も回るから、名刺とパンフレットだけ渡しても忘れられる。でも、家に帰ってコロンと茶匙が出てきたら、それは覚えてくれるだろうと思ったんです。そして、彼らからもらった名刺に「来てくれてありがとう。茶匙どう?つかってる?」とメールを送ったら、大体返事くるんですよ。「ありがとう。つかってるよ」って。そこでパーソナルなコンタクトが掴める。それから「うちの写真あるし、送るね」って送ると、雑誌にばーっと載るようになったんです。その後、2年目、3年目になると「雑誌で見た」、「お客さんが欲しいって言ってる」…「これ売ってもらえませんか?」になるわけです。
うちのお茶筒って、やっぱり邪魔くさいんですね。色が変わるのに慣れてくださいね。水は使わないでくださいね…っていろいろなことを伝えなきゃいけない。それを伝えるには向こうがこっちを向いてくれるところでないとだめだと思っていたので。感覚では、僕の親戚を向こうにつくりに行く感じです。こっちを向いてくれたところに対して、長いこと付き合っていく。家族です。そういうことを大切にしていくことで、今は本当にいいところだけにお茶筒が売られている。
だから「職人の世界」や「職人の価値」を伝えるときも、「ジャパンの考え方だぞ」みたいな感じではダメだろうと思っています。「あなたのところにも職人さんありますよね」、「その職人さんの感覚ってこうじゃないですか?」、「やっぱりそこに価値があると思うんです」っていうふうに、世界中の「職人の価値」というものを上げていくということをしたいんですね。
このカフェをつくったのも、日本のなかで「伝統工芸の意味」をきちんと伝えたい、と思ったからです。若い人に「伝統工芸」っていうと構えちゃうじゃないですか。でもカフェだったら普通に利用できる。そこで、良い工芸品を使ってもらって、「これ気持ちいいな」と思ったときに情報を渡して、そこへ買いに行ってもらいたいな、そう思ってこのカフェをつくった。もちろん開化堂を伝えるということもきちんとやっていかないといけない。でも、開化堂の品だけで暮らしているわけじゃないので、暮らしのなかでどういう風にうちのお茶筒が収まるのか、ということを体験してもらう場所、と思ってつくったんです。体験価値っていうのが、ものを伝えていくことに本当に大事になっていくと感じています。
「GO ON」は伝統工芸という共通項はありますが、扱う素材、培ってきた技術はまるで違う個性が集まっていると感じています。そのなかでものを伝えていくことで得たものは?
「GO ON」では「職人とはなんぞや」、「工芸とはなんぞや」ということを、枠を決めるんじゃなくて、「アンカーを打つ」ということは絶対しないといけないと思っています。アンカーを打ったときに、それがどこまで広がっていくのかは、それぞれによって違っているだろう。中心点を決めることは大事だと思う、けど、端なんていうのは、時代とともに変わっていくことだし、オーバーラップして当然だと思うので。中心点だけは自分たちで決めて、間違っていてもいいからまずは世界に発信しよう、と思って、「工芸とはなんぞや」ということをずっと話し合いました。
今、「GO ON」では、パナソニックさんをはじめとする大きな企業さんに対して、クリエイティブディレクションのようなかたちで関わっているんですね。それに対して、フィーをいただいて、自分たちが今まで培ってきたことが、モノじゃなくても、ちゃんと価値になっていくことをかたちにしはじめているんです。世界中の工芸の人たちが、ものづくりのお金だけではない部分でお金がもらえるようになってほしいな、という思いがあって。
その流れのなかで、去年はパナソニックさんと一緒に「Electronics Meets Crafts:」ということを、ミラノサローネで世界に発信してきました。うちがつくったのはこのスピーカーです。開けることによってスイッチが入って、蓋を締めることによってオフになるんです。そして、経年変化によって色が変わる。家電は買った時点から価値が下がっていくもの、と今は思っているけど、価値の上がっていく家電ができないかな、と思ってつくりました。うちのお茶筒が、クリスティーズでオークションにかけられたことがありました。15年前、10年前、8年前、5年前、新品という5本をセットで出したところ、6,000ドルで落札されてるんです。ということは、経年によって価値が上がるということを世界が理解しはじめているということでもある。100年先に、おじいちゃんがお孫さんに「わしが使ってたスピーカーだよ」って渡すというのもありかなぁ、と思ってこれをつくりました。
やってみて分かったことは、僕たちは今までマスに伝えることがやっぱり苦手だった、ということ。今回のようにパナソニックさんとやることによって、マスに発表ができる。そこでいかに「職人の考え方」とか、「受け入れるダイバーシティな考え方」を世の中に対して発表するのかっていうのが、今回のチャレンジだったんです。そのなかでミラノサローネのベストストーリーテリング賞までもらえて、それがまた他の企業さんからの「お前ら面白いね」というところにつながっていく。それは、いいことだったなあ、と。
2005年のAnthony D’OFFAYさんと出会う以前から、今のような確固たる美意識や工芸観を持っていたんですか?
毎回毎回勉強してます。毎回毎回勉強してるけど、僕のなかに「開化堂」というのがあるからぶれない。「開化堂らしさ」ということは大事にしようと思ってるし「100年先までお茶筒をつくりたい」というのは絶対変えない。そのために、カフェをつくっているし、パナソニックさんともやってる。海外に売りに行ったのも、ウォーターピッチャーとかいろいろとつくっているのも、そういうのも、僕のなかでは「木の幹がお茶筒」だと思っている。枝葉の部分がウォーターピッチャーであったり、コーヒーの缶やパスタの缶、カフェで、それがおもしろければ人は寄ってくるかな、と。遠くから見てたら幹は見えないけど、近寄ってもらったら幹が見えるだろう、と思ってやっています。「100年先までお茶筒をつくりたい」ということだけを、念頭において。
その軸はどう養われたんですか?
「GO ON」が大きいですね。はじめから「お茶筒を売っていく」ということは考えてはいましたが、本当にそれが強くなってきたのは「GO ON」の他の5人がいたからです。はっきり言うと、ライバルなんです。
杉本博司さんと一緒にやらさせいただいた時の感覚も今に響いてます。ガラスのお茶室の作品だったので、「銀だときれいだろうな」って思って、杉本さんに持って行ったんです。そうしたら、杉本さんに「お前んとこ、銀じゃねぇだろ、ブリキだろ?ブリキで銀を超えてこい」って言われたんです。展示まであと2週間しかない。もう人生最大の危機みたいになってたんです。
帰りの新幹線で死にそうになりながら家に帰って、ふと目の前にあったのが、おじいちゃんが50年前につくった缶だったんです。釘入れとして放ったらかしにされていた缶。「あ、これだ」と思ってバラバラにして、その材料でお茶入れ、香合、つたおき、茶杓をつくったんです。これは絶対買えないものだと。すると、杉本さんは「これならいいよ」って。
そのときにやりきったからこそ、開化堂は「アーティストになっちゃいけない」と思ったんです。刹那的に、その都度、その都度つくることではなくて、僕たちがやろうとしていることは、「100年先もお茶筒をつくり続けること」なんだ、と。自分の代だけという考え方でやっては、途切れていっちゃうんです。
「伝統は革新の連続だ」ってよく言うんですけど、僕は違うと思っています。革新って、何かを変えて新しくしていくこと。そうじゃなくて、僕は「アジャスト」、「調整の連続でしかない」と思っています。
例えば、うちのお茶筒も、昔と比べると蓋の硬さが変わってるんです。今の人はペットポトルに慣れてるので、だいたいの人がお茶筒を横からつかもうとする。なら、そうやってつかもうとする人たちが気持ちいいと思ってもらえるように、蓋の開閉部分を少し緩くしないといけないんです。それでいて、お茶筒の気密性は変えてない。それがアジャスト。そういうことがあるから、今の人が「気持ちいいね」って使ってくれる。その連続をしていくのが、僕は伝統工芸だと思っています。ウォーターピッチャーとかティーポットとかも作ってます。だけど、それに変えていくことが、僕は伝統ではないと思う。本質のお茶筒は変えちゃいけない、と思っています。
ハーバード大学の学生さんたちに「10年、20年先のことを考えないで、100年先のことを考えましょうよ」という話をしたことがあります。すると、質問がきて「わかりました。では、100年前、50年前でもいいけれども、今に関係していることは何ですか」と。
そのときにふと思ったのは、うちのおじいちゃんの時代なんです。おじいちゃんの時代には第二次世界大戦があって、その後は大量に機械製のものが日本に入ってきてるんです。第二次世界大戦の時は「道具を供出しなさい」と言われて、おじいちゃんは道具を半分だけ供出して、半分地下に埋めて隠して、それでも作らないと食べていけないから作って、それがばれちゃって、憲兵に捕まったりしてたんですね。そして戦後になって、やっと作れるようになったときに、今度は大量に機械製のものが入ってくる。「機械のものがいいものだ、手作りのものは古臭いものだ」という、そんな時代。そんな時代におじいちゃんは、機械にはいかずに手作りのまま、薬屋さんをしながらも守ってきた。そんなおじいちゃんがいるから、僕が今仕事ができるんです。もし、おじいちゃんが機械製に行っていたら、たぶん今頃は、ベトナムや中国に勝てずに、開化堂を畳んでいるかもしれない。だからこそ、本質の部分を変えずにどう次にバトンタッチしていけばいいのか、とやっぱり思うんです。
変わらずに繋いでいくという態度の八木さんから見たとき、逆に、所謂「工芸」と呼ばれる様々なことを解体して新構築するような動きはどう見えているんですか?
その人にとっての本質が失われていないのであれば、僕はありだと思うんです。例えば、中川木工芸の中川さんは「桶を作る」ことの本質は絶対に失っていない。桶をつくる技術を残すために、いろいろなことをやっている。本質の技術、うちでいうなら「合わせの技術」がなくなったときには、僕はそれを繋がってるとは思わない。その本質を知る勉強になったのが「GO ON」なんです。先ほども言ったように、ライバル。だから、バンバンぶちあたってるんです。この人たちに負けないようにしよう、自分の力を出そう、と思うと、本来自分が持っている本質をきちんと理解していくしか方法がないんです。
本質をどう見極めるのかっていうことが、たぶんこれから1番大事な部分になっていくと思うんです。自分が分からずに、虚勢をはっていると、相手に攻撃された時には、相手を攻撃することでしか自分を守ることができない。自分の本質さえ理解できていたら、相手を認めることができる。本来それが一番大事な部分なんじゃないかなぁ。それこそ平和をつくれると思う。
工芸には、国境がないんですよ。隣の韓国に行ったり、台湾に行ったりしても、その品は使われる。多少のアジャストは必要かもしれないけど、世の中に対してボーダレスに忍び込んでいくことができる。それができるのが工芸で、それこそ平和の役にたてるんじゃないかな、と。
ものをつくるっていう行為のなかに、機能以上のものが宿る、と考えるのが日本だと思うんですが、実際にものをつくる人にはそのあたりはどうですか?
自分に求められるもう1歩、2歩先のもので、何がいいんだろう、ということを考えて、毎日つくる。それを1回だけじゃなくて、毎日ずーっと続けてることが、それが、そういうものに繋がっていくんじゃないかな、と思います。それは、人のためにつくってるからだと思うんです。お金のためじゃなくて。使う人のことを考えて、1代じゃなくて、2代、3代と使われるから、その人だけじゃなくその家族のことも考えて、きちんとつくる。しかもそれを修理するのは、僕じゃなくて僕の孫かもしれないわけだから、恥ずかしくないものをつくらなきゃいけない。そういう感覚があれば、そういうものになっていくんじゃないかな、と思います。
今、見えていない、今、目の前にいない人たちも、自分の関係者である、ということ。
それを伝えていくことことが、たぶん仕事なんです。
この世界において、「職人の価値」とは何ですか?
今の世界は、今の自分だけを考えてる人たちが多いと思うんです。そうじゃなくて、自分が生まれて今あるのは、過去と未来があってはじめて自分があると思うんです。それを理解するために、僕たちがいるんじゃないかな、と思います。