「プレゼント」という言葉は、いま、いる、出席している、という意味を指すpresenceと同じ語源からの単語と言われている。
pre-esse-entのpreは前もって、esseというのは、ラテン語のbe動詞で、I am(わたしはいる)という意味である。essence (エッセンス、本質)という言葉にも使われる。
つまり、いまここにいる、ということは、それだけで、プレゼント(おくりもの)であり、それは、存在の本質でもある、まるでそんな風に聴こえてくる。
「いま」いるということ、目の前に粛然と存在し、同じ現実に立ち会うこと、
悲しみや、喜びや、感情のどれとも説明のつかない逡巡、他愛ない日常の風景に。
同じ時と場を共有し、現実のうちに、互いの存在を現出すること。
それは、なにも、大掛かりなサプライズプレゼントでなくても、日常のなかで、ただ「いる」ということを奨励してくれた私の父のようなふるまいや、前述の、サンタみたいな必死にいまを讃える姿でも、まなざしのある風景をつくってくれるおばあちゃんでも、なんでもいいのだと思う。
いま、生きている。
いのちを 世界に迎えられている。
その鮮烈な輝きや、世界の寛容に抱かれ、わたしたちは、大きな宇宙の環のなかに守られている安息を知る。そして、その環を構成する一部である我がいのちの尊さを思い知る。
その充溢は、人間のなにか根源的な深みまで届いて、魂の器を満たす。
そのときはじめて、わたくし、を世界に差し出す準備ができる。
「交換」の外に出ることができる。
第1話で書いたようなサプライズを受けた人たちが、きまって言うことがある。
「次は、自分もだれかに、この幸せをおくりたい」
どんな人も、純粋に心が満たされれば、溢れた分を分け与えたい、と自ら願い出るものなのだ。
「わたしはもう充分受け取った」
「この喜びを、わたしもおくりたい」
瞳にたくさんの光を浮かべ、そのように語る様子に、わたしは人の本来の姿を見ているような気がしていた。
そして、人々によってつくられる循環の起点となり得るエネルギーのうずき、暖かくて柔らかい文明の萌芽のようなものを感じていた。