異国でみつかった故郷 第1話「日本文化はグラタン!」

周 思敏さんによる連載
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「サラダボウル」ならぬ「グラタン」

アメリカ文化論の歴史変遷をみると、独立した当時のワスプ(WASP, White Anglo-Saxon Protestant)を主流とする同化論(assimilation theory)から、18世紀後半には各人種・各民族の伝統を融和(amalgamation)した社会を建設する「るつぼ論(melting pot)」に発展したことがわかる。さらに、20世紀後半になると、文化的多元主義(cultural pluralism)が台頭し、アメリカの国民はお互いの差異を認め合い、尊重し合いながら共存していくという考え方がだんだん主流となった。レタス・トマト・キュウリなどの野菜が、それぞれの旨味を発揮しながら、一つの料理として美味しくなるというイメージから、「サラダボウル」にも例えられる。
「サラダボウル」は美味しそうだ。アメリカならではの文化的特徴を、わかりやすくて面白くて、かつ正確にとらえていると思う。では、私にとって同じく異国である日本はどうだろう?食べ物に例えると、なんだか「サラダボウル」とはぜんぜん違うなにかのようだ。
西洋人による見解には、単一民族からなる大和の国の文化を一個の主体として分析されることが多い。しかし、中国大陸で生まれ育ち、韓国で一年生活し、日本をかこむ地域の文化を体感したのちに日本にやってきた私は、「日本文化」というお皿の中で、サラダのようにいろいろな種類の食材が入っていると思う。
でも、「サラダボウル」ではないな……
洋食屋で注文した料理を待っているあいだ、私はあれこれと考え続けた。すると、一皿の「グラタン」がテーブルに届けられた。
濃厚なチーズトッピングが薄いキャラメル色に焼かれ、お皿から溢れ出るぐらい全面を覆っている。スプーンで一口すくって口に入れると、まずはチーズの香りが広がった。次の瞬間、タマネギのやわらかい食感と甘味が少しずつあらわれた。あと少し、「かぼちゃ?」のような味もした。二口目、お皿の底まで深くスプーンを入れて、すくいあげたのは、チーズとクリームをまとっている「ピーマン?」とマカロニだった。メインはライスかと思ったらマカロニだったね。パクパクと美味しいグラタンをほおばると、お皿の真ん中あたりで、チーズ層の下で眠っていた硬めのなにかを発見。スプーンでぶすっと刺すと、なんとハンバーグだった。いや、それもそのはず。私は「ハンバーググラタン」を注文したのだから。
ハンバーググラタンを注文するとき、私は「グラタン」という料理に対する私の先入観と「ハンバーグが入っている」という情報しか把握していない。
じっくり焼かれて、すみずみまでチーズが溶け込んだグラタンの写真を見たら、「美味しそう!」と思っただけで、実際に食べてみたら、少しずつ予想とずれていく。ライスだっと思ったら実はマカロニ、チーズの味も思っていたのとだいぶ違う。さらに、味わっていくうちに、予想していなかった味が次々とわいてくる。しかし、それらの食材が、溶けていたり、チーズをまとったりして、特定できないものもかなりあった。
そうだ、グラタンだね。私からみる日本の文化。

故郷の中国広州にある大学で日本語を専攻して、言葉も文化についてもたくさん勉強したため、私には日本で生活する前にある程度の先入観があった。その先入観をもって日本に来たとき、最初は大きい違和感を覚えることなく、魅力的な日本文化を見渡していた。日本に来る前に私が抱いていた美しい日本がそこにはあった。
しかし、実際に日本で生活してみると、私が持っていた先入観通りのこともありつつ、驚くことも多かった。例えば、今や抹茶といえば日本ならではのお茶で、中国で飲まれるお茶は、茶葉からお湯で出すものだと思われている。ところが、日本で茶道の歴史について調べているうちに、中国の宋代には点茶という飲み方があり、それが日本の伝わったお茶の原型だということがわかった。また、日本の茶道で使われる道具の中で、唐物という類に、馴染みのある形や意匠を持つやきものがたくさんあるが、和室という空間に入り、茶の湯の伴になるときに、まったく別物のように見えた。
母国中国でも触れてきたはずのものが、まったく違う様相になっている。まったく違う様相ではあるけど、どこかデジャブのように、好奇心をそそることも多い。
私が体で感じている日本文化は、まさにグラタンのようだ。予想通りの美味しさもあれば、「ん?」と思わせる面白い感触もある。そして、よく味わってみると、少しずつ食材の味がわかるようになり、「なるほど!」と驚きながら、懐かしい感じが湧いてくる。
その懐かしさはおそらく、日本の伝統文化の歴史を遡ると、多くの場合、母国である中国との深い関わりがあるからだろう。
一方で、今まで当たり前だと思っていた母国のことが、実は曖昧のままで放置してしまったことにも気づかされた。 目の前のグラタンを例にとれば、グラタンに入っているタマネギのことは当然のように知っていたけど、そのタマネギを「植物の根っこ?」「果実?」とか、「成長期・収穫期はいつ?」とか、あらためて考えてみると、知らなかったことが意外にも多いことに気がづくのと一緒だ。
「グラタン」に入っている食材について一つひとつあらためて考えるように、日本で受けた刺激によって、はじめて母国の歴史・文化を見直すことになった。そして、異国の文化とともに故郷のへの認識を深めることができた。数々の新しい発見は驚きの連続だけでなく、探るほど温かい気持ちになる不思議なものだ。
この連載では、「異国でみつかった故郷」を少しずつ深掘りしていきたいと思う。日本文化という「グラタン」を美味しくいただきつつ、スプーンですくい上げた食材を、一個一個味わっていきたい。

「グラタン」との初対面

二〇〇七年、私は、故郷である中国の広東省広州市と日本の兵庫県明石市との高校生交流プログラムをきっかけに、初めて日本という地に足を踏み入れた。明石に住む同じ年の高校生の家に泊まり、学校についていったり、家族と旅行したりして、十日間を一緒に過ごした。その二か月後、日本の友達が私の家に来てくれて、広州で同じく十日間をともにした。その時、私と家族のみんなはまったく日本語ができず、日本側の方もまったく中国語ができなかったが、片言の英語にジェスチャーと筆談などでコミュニケーションを試みた。戸惑いもあれば笑いもあり、その過程はとても愉しいものだった。
その愉しい体験がずっと心に残り、「いつかまた行きたい」「その国の言葉を勉強したい」という考えが芽生えた。高校卒業後、地元の大学に進学し、日本語を専攻することにした。日本語は漢字が多いし、なんとかなると、最初は軽く考えていたが、勉強の内容が深まるほど、苦労が増した。
例えば、目上の人に敬意を表すとき、中国語の場合は通常の文章に尊敬の意を含む語彙を言い換えたりするが、日本語には敬語という、動詞の語尾を変える文法システムが存在する。「参加」+「する」という組み合わせを、「参加します」と「参加させていただきます」にするとき、主語は同じく「わたし」だが、「参加していただきます」というと、「参加する」人は相手になる。この仕組みを理解できるまで、練習問題を何ページやっていたか、もう振り返りたくない。苦労をしながらも、新しい言葉に触れることで、その仕組みから垣間見る新しい世界に惹かれ、その世界を自分の眼で見て、自分の身体で感じたいという気持ちが募るばかりだった。
「そうだ!日本に行こう!」
大学卒業後の進路は、迷わず日本に行くことにした。

京都でなにをみているか

十年前の高校生交流プログラムで明石に滞在し、週末に、ホストファミリーと京都に日帰り旅行をした。日本の古き都として名高い京都は、本当に魅力的な街だ。そして、今ではこの街に住んで五年目となり、いつも肌で感じているのは、第一印象と同じく、「どこか新鮮で面白い」とともに、「どこか懐かしい」ということ。
私の京都生活は、驚きの連続。異国のはずだが、建物の屋根や町を彩る装飾など、所々母国中国を彷彿させる場面が見られる。都会化が進んだ街で生まれ育った私は、いにしえの中国文化のほとんどは教科書に頼って育った。それがまさか外国に来て、自国の古代文化を味わえるとは思いもよらなかった。
そう思っている中国人たぶんは私一人だけではない。中国のインターネットで京都の写真や旅行情報を検索すると、かなり頻繁に「長安のようだ」、「雪が降ると、京都は長安城になる」というコメントを目にする。
周知のように、中国の長安城をモデルとした平安京が、京都のまちづくりの始まり。延暦13年(794)、桓武天皇が京の地で大路・小路によって区切られたブロックからなる条坊制の町を計画的に造り、「平安京」と呼び、その後、首都の呼び名は次第に「京都」に変化した。都の人々は、使節や僧侶による交流、さらに海外との貿易を通じて、中国と朝鮮をはじめ、世界中からモノや思想を吸収してきた。のちの時代に、政権更迭や戦乱によって、町全体が著しく変貌したが、ブロック状の町づくりは残り、権力者の文化政策と商工業者の営みによって、古き良き雰囲気が保たれているエリアも多く残っている。
実は中国の歴史の中で、「長安城」と呼ばれる都はいくつかあった。漢時代(紀元前206~紀元後220)から南北朝時代(420~589)にかけて、「長安」と呼ばれる町が存在し、隋時代(581~618)に一度「大興城」と改称されたが、唐時代(618~907)になると、また「長安城」に戻った。その時に長安城は、シルクロードのスタート地点でもあり、西のローマがあれば、東に長安があると言われるほど、大変繁栄していたメトロポリタンだった。日本の平安京がモデルとたのは、すなわちこの唐の長安城だ。
その長安城は、今は西安という町として発展してきた。近代になると、工業化や都会化が劇的に進み、唐の長安城の今は、モダンビルの群の下に眠り、断片的にしか見られないようだ。西安は、地元の広州からかなり離れている町なので、長安城の今の姿については、ほとんど噂やネット情報で入手した。母国では遠い街だった「長安城」。その街のことを京都に住むようになってから頻繁に耳にするようになって、今では西安に実際に足を運んでみたいという気持ちがだんだん高まっている。中華圏の観光客の方々も、京都で日本文化を知ると同時に、いにしえの長安城の面影を求めにやってきたかもしれない。

祇園祭 ー 多文化の「グラタン」

京都に住んでいて、毎年外したくない行事は、まず祇園祭が挙げられる。現在は京都の風物詩となっている祇園祭。その歴史を遡ると、とても面白くて意味深い多文化の融合が見えてくる。
平安時代貞観年間、自然災害が続き、社会不安が深刻な中、疫病の流行により京のみやこが恐怖に陥った。貞観11年(869)、疫病の流行が祟りによるものだという御霊信仰により、牛頭天王をはじめとする疫神を祀る御霊会が、祇園祭の起源とされている。
牛頭天王は、インドにおいて成立した仏教と、中国において発生した道教と、日本の固有宗教たる神道との習合(syncretism)によって生み出された新しい日本の神祇である(西田長男「『祇園牛頭天王縁起』の成立」)。
日本における宗教の習合という現象は、類を見ない豊富さと複雑さがある。元々形のない「八百万の神」を対象とする固有信仰は、宗教的信仰として伝承していく過程の中で、外来宗教の概念や体系を導入し、形にすることが必要だったと考えたい。(浅学ながら、習合現象についてはひとまず念頭に置き、今後の課題として研究していきたい。)
祇園祭の話に戻ると、今では祇園祭と言えばすぐ山鉾巡行を思い浮かぶ。実はそれは神輿渡御に付随していた出し物だった。疫神を喜ばせるために次第に華美になり、現在、「移動美術館」と評されるほど、山と鉾の迫力と美しさが祇園祭を代表するようになったのだ。
私からみる祇園祭の山と鉾の面白さは、まずそのモティーフにある。初めて祇園祭の山鉾を見に行った時に、孟宗山・伯牙山・函谷鉾・白楽天山など、「なんか見たことあるなあ」という名前がたくさんあるということが印象に残った。中国の書物『二十四孝』の物語や、中国の民話などから由来していると、のちの調べでわかった。中国由来なのに、うろ覚えしかない物語が多く、恥ずかしいと思いつつ、なぜ異国の祭りに母国由来のモティーフが大量に現れるか、驚きと不思議な感じがずっと心を満たしている。
例えば、「函谷鉾」という名前は、函谷関という中国古くからの軍事的要塞にちなんで付けられている。この歴史的に有名な場所で、かつてさまざまな出来事があり、その物語に由来する熟語は現代にも使われている。そのひとつに「鶏鳴狗盗(鶏が鳴く、犬の真似してものを盗む)」という物語があった。
中国戦国時代(前403~221)、秦の昭王が有能な大臣を求めに、隣国斉の孟嘗君を招待しした。しかし、孟嘗君が秦国に到着したのち、臣下の一人がこのように進言した。「有能な孟嘗君が斉国の士族なので、秦の大臣になっても、斉国の利益を優先するに違いない」と。
その進言を聞いた昭王は、このまま孟嘗君を斉国に帰せば秦の脅威になると判断し、なんと監禁してしまった。そこで、有志の者が集まって孟嘗君を救出しようと企てた。
最初は、昭王の王妃に昭王を説得するようお願いした。その王妃は、条件として、「狐白裘(狐狸の毛で作られた純白の羽織)」を要求した。しかし、その羽織は孟嘗君が入国した時に昭王にプレゼントしたもので、昭王の蔵の奥にしまっていた。それを聞いた救出隊の一人が、犬用の入口から昭王の蔵に入り、羽織を盗み出し王妃に手渡した。ご満悦の王妃は昭王を説得することに承諾したが、思いのほか行動が遅かった。焦り出した救出隊は、孟嘗君を深夜に脱出させようと決行したのだ。
孟嘗君は救出隊の力で何とか監禁先から脱出したものの、一行は函谷関という所で足が止められてしまった。
一行が困り果てていると、救出隊の一人が突然、門の側で鶏の鳴き声を真似しはじめた。すると、まわりに鳴き声を聞いた雄鶏が一斉に鳴きだし、なんと関門が開いたのだ。当時の秦の法規には、毎朝、鶏の鳴き声を合図に関門を開け、日没の時に関門を閉めるというルールがあったからだ。一人の救出隊の機転によって、一行は無事に斉に帰ることができた。という物語。
この物語にちなんで、「鶏鳴狗盗」という四字熟語が生れた。くだらない才能、あるいは正当な手段をとらず、悪賢い方法で問題を解決しようとする行為を指す。
こうして、中国由来の典故が引用され、祇園祭の山鉾を飾るモティーフとなった。外来の食材をとってきて、いろんな調味料をかけてじっくり焼いた結果、外見はまったく新しい食べ物に出来上がったように。
この「グラタン現象」は、単に中国からの食材が日本で調理されただけ、のことではない。同じく、函谷鉾に注目し、現在その鉾を飾る品々をみると、真ん中の「天王座」には孟嘗君、その下に雌雄の鶏が添えられる。屋根裏は今尾景年(1845~1924)筆の金地着彩鶏鴉図で、水引は山鹿清華(1885~1981)作の手織群鶏図。ここまでは函谷関の典故と関連するモティーフだが、ほかにも見てみると、前懸は旧約聖書創世記の場面を描いた16世紀末の織物で、胴懸は梅に虎を織り出した17世紀李氏朝鮮絨毯、花文様インド絨毯、玉取獅子図中国絨毯の三枚。さらに、見送はかつて弘法大師筆と伝わる紺地金泥の金剛界礼懺文と江戸時代天保年間(1830~43)にこれを写した織物があったが、最近に染色家皆川泰蔵(1917~2005)の作「エジプト天空図」を新調したようだ。ここまでくると、これはどこでどんな祭りをしているか、一瞬忘れてしまうほど、「グラタン」にたくさんの種類の具が入っているのだ。
祇園祭の山鉾巡行に参加するほとんどの山鉾に、このようなグラタン現象が起こっている。気になった味から探っていくと、いろんな食材を知ることができ、味わうほど面白さが増す。このような新鮮さと懐かしさの融合とそこから生じる刺激こそ、京都と日本の文化の私にとって最大の魅力である。異国で未知の故郷がみつかる。異国とともに、故郷への愛情が高まる。このグラタンを、一口ずつ、ゆっくり、じっくり、味わっていきたい。
TEXT BY
周 思敏
周 思敏
訳者

言語をパイプにして思いを疎通する「訳者(communicator)」である。現在、博物館に訪れる異文化背景の観覧者のために、多言語によって日本美術と文化歴史を紹介することを本業とする。また、本業の傍らに、写真・映像・音楽・身体表現・ものづくり・空間づくりなど、多様な表現方法を実験している。言葉の精度を追求する一方、言葉だけに頼らないコミュニケーション法を日々模索中。

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